白い風、宵の月 第1章05

05 鴟鵂

 五年前のことを、隠し刀はずっと後悔していた。
 密書を手に入れ、ペリーをあと一歩のところまで追いつめたが、突如現れた鬼の面をした男に、手も足も出ぬまま敗れてしまったあの夜。
 暗殺に失敗し、片割れを失い、里の存在を幕府に知られ……。隠し刀を責める言を吐く者はいなかったが、内心ではどうであったか。何より、隠し刀自身が己を責め、悔いていた。
 里を出てからのこの五年、隠し刀は片割れを探す一方で、ひらすらに研鑽を積んだ。片割れと再会を果たしたあと、もう二度と彼女を失うことなどないように。
 そうして得た強さを、何故その片割れ相手に振るわなければならないのか。隠し刀は心の中で叫びながら、刀を握り締めた。
 片割れはやはり強かった。五年前よりも、ずっと。隠し刀が己を鍛えてきたように、彼女も技を磨いてきたのだろう。何より、その左腕の機械が厄介だった。
 金属でできた禍々しいその腕には、様々な仕掛けが施されていた。手首が鉄線と共に腕から打ち出され、鉤縄か鎖鎌よろしく周囲を切り裂き、片割れが宙を走る。かと思えば、まるで小型の大砲のように砲弾を撃ち出し、火を噴いて爆発するのである。
 見たことも聞いたこともない兵器に、隠し刀と久坂は翻弄された。だが、そうはいっても二対一。形勢は間もなく逆転した。
 飛んできた機械の左手を隠し刀が弾き、それが引き戻される前に久坂が片割れに斬りかかる。道場で腕試しをしたおかげが、二人の息は良く合った。
 そうしてついに、片割れを壁際まで追い詰めた。忌々しいとでも言わんばかりに顔をしかめる片割れを見て、隠し刀はどうしようもなく悲しくなった。

「何故だ!? やっと会えたのに……、何故こんな!」

 思わず叫んだ瞬間だった。頭上の窓が大きな音を立てて割れ、大小さまざまに砕けた硝子の破片が降ってきた。隠し刀と久坂は頭を庇い、反射的に後ろへと下がった。
 顔を上げると、割れた大きな窓に煌々と照る月が見えた。そして、銃身をいくつも束ねたあの火器も。

「避けろ!」

 久坂の声に、隠し刀も間髪入れずに床を蹴った。耳を劈くような銃声が轟き、隠し刀と久坂が立っていた床が一瞬で穴だらけになる。
 二人は左右に分かれてそれぞれ柱の影に隠れたが、篠突く雨の銃弾が、久坂が隠れた柱に降り注いだ。

「これでは動けん!」

 銃声にも負けぬ声で久坂が叫ぶ。とかく、あの兵器をどうにかしなくては。流石に無限に撃ち続けられるわけでもあるまい。弾が切れた瞬間を狙って……。
 隠し刀がそう考えることはお見通しだとでもいうように、片割れが柱の影に飛び込んできた。
 上段からの一振りを刀で受け、押し返す。そのまま二度、三度と斬り結び、隠し刀は前へ出た。力押しならこちらが上。だがその瞬間、片割れの左腕が動いた。真っ直ぐこちらに向けられた機械の手がガチャンと音を立てて折れ、その断面にぽっかりと開いた銃口が見えた。
 咄嗟に足を引き、身を捩る。銃声が耳元で響いた。爆ぜた火薬の熱を頬に感じながら、隠し刀は更に後ろへと飛び退いた。

「下がるな!」

 久坂の怒号にも似た声が聞こえた時には、遅かった。片割れの攻撃によって、隠し刀はまんまと柱の影から引きずり出されたのだった。
 はっとして窓を見る。束ねた銃身が、真っ直ぐ己に向いているのが見えて、隠し刀は息をのんだ。
 銃身の向こうに異人の兵士がいる。その背後には大きな満月が……。不意に、その光が陰った。瞬きを忘れた隠し刀の目に、満月を遮る黒い影が見えた。
 兵士も、不意に己に落ちてきた影に気づいて、後ろを振り向いた。瞬間、月明かりに鮮血が舞った。音もなく現れた影が、異人の首を掻き切ったのだった。
 片割れも動きを止め、窓を見上げた。
 月明かりの逆光の中、隠し刀はその影が鳥を模した面を被っていることに気づいた。心臓が跳ねる。隠し刀は、あの面を知っている。

「まさか、鴟鵂しきゅうだと……?」

 片割れが驚きの声をもらした。そう、『隠し刀』なら、あの面が何を意味するのか知っている。あれは里で『鴟鵂』と呼ばれていた『隠し刀』が身に着けていたものだ。残忍無比な、黒洲藩の『始末人』である。
 まさか、自分たちを追って? あり得なくはない。脱藩は重罪。充分に『鴟鵂』による始末対象だ。
 隠し刀は緊張した。あまりにも間が悪すぎる。自分や片割れだけならまだしも、久坂まで巻き込んでしまう。
 兵士の返り血を被った鳥の面が、刀を鞘にしまいながらこちらを向いた。その手が火器に伸びるのを見て、隠し刀は慌てて床を蹴った。だが、銃口が向けられた先は、すでに射線上にいた隠し刀ではなく、片割れの方だった。
 銃身が回転する。片割れが柱の影に身を隠すのと、無数の銃弾が撃ち出されたのは同時だった。

「一体どうなっている!?」

 隠し刀が久坂のもとまで逃れると、彼はそう声を張り上げた。
 彼の混乱は無理ないことだった。隠し刀自身、この状況に困惑しているのだから。事情を何も知らない久坂には尚更だろう。だが、懇切丁寧に説明している暇はない。

「ここは私に任せてくれ! お前はハリスを……」

 隠し刀も銃声にかき消されぬようにと声を張ったが、そのけたたましい音が突然鳴り止んだ。柱の影から顔を出し、状況を確認する。どうやら弾が切れたらしい。
 すかさず、片割れが飛び出した。高い位置にいる刺客に向かって左腕で発砲する。刺客は身をかわし、窓から飛び降りた。着地した、と思った時には、刺客はすでに床を蹴って片割れに肉薄していた。
 飛び込んだ勢いを乗せた抜刀は、居合の達人も顔負けの早業である。片割れは辛うじて刀で受けたが、見ていた隠し刀はひやりとした。もし受け損ねていたら……。
 刺客は刀を振りかざし、二の太刀を浴びせようとする。機械の腕がこれを受け、金属がぶつかり合って火花が散った。
 二人の体格はそう変わらないように見えるが、刺客の方が上背がある。片割れが顔を歪めた。それを見た瞬間、隠し刀は飛び出していた。
 片割れは右手の刀で刺客の胴を狙ったが、脇差しを左の手で逆手に抜いた刺客にあっさりと弾かれ、態勢を崩した。刺客がその隙を見逃してくれるはずもない。
 脇差しが片割れの首を刎ねる――直前、隠し刀は片割れの襟を掴んで引き倒し、刀で刺客の刃を受け止めた。力任せに跳ね除け、上段から斬りかかる。刺客は後ろに跳んでこれを躱した。
 その瞬間、どこかで嗅いだことのある匂いが隠し刀の鼻を掠めた。
 窓から差し込む月明かりの中、右手に打刀を、左手に脇差しを構えた刺客が、じっとこちらを見据えている。呼吸の乱れもなく、言葉の一つも発さない血濡れの鳥の面が不気味だった。
 だが、隠し刀は気づいた。あの刺客は本気でこちらを殺そうとはしていない。そういう鋭さの殺気を放っていないのだ。それに、あの匂いは……。

「あなたは……」

 と、口を開いた瞬間、背後でガチャンと物々しい音がした。
 隠し刀は思わず振り返った。暗い銃口と、どこか苦しげに歪んだ片割れの顔が見え――意識する前に、体が回避行動を取っていた。
 放たれた砲弾が、爆ぜた火薬の熱と共に隠し刀の横を抜け、刺客に襲い掛かった。隠し刀の体が目隠しになっていたのだろう。刺客は反応が一瞬遅れたようで、床に転がるような横っ飛びでそれを躱した。
 そうして出来た隙に、片割れは左手を天井に向かって射出し、割れた窓へと飛び上がった。

りん!」

 隠し刀は叫んだ。片割れが行ってしまう。そう思った瞬間、刺客のことも忘れて窓に駆け寄っていた。

「……いずれ、お前にもわかる」

 要領を得ない言葉だけを残して、片割れは夜の闇へと消えていった。
 いずれだと? 何故今では駄目なんだ! やっと会えたのに、何故また俺を置いていく!?
 そんな慟哭が喉の奥から飛び出しかけて、隠し刀は唇を噛んだ。その時、床に散らばった硝子片を踏み締める音が聞こえた。
 はっと我に返った隠し刀の耳に、今度は風を切る音が。刀を構え直しながら振り返れば、黒い影が宙を跳んだ。刺客が鉤縄を使い、片割れと同じように窓へ飛び上がったのだった。

「待ってくれ!」

 呼び止めたが、刺客は振り返ることすらしなかった。そうして窓には、青白い月だけが残った。
 隠し刀は、何故だか急に心細く感じた。遠くからはまだ仲間たちの怒号が聞こえている。久坂も近くにいて、こちらを見つめている。なのに、この場にただ一人取り残された気分だった。
 あとを追うべきだったろうか。そうしようと思えば出来たはずなのに、何故か体が動かなかった。

「何やら訳ありのようだな」

 と、久坂の声がした。平静を装い、努めてゆっくり刀を鞘にしまいながら、隠し刀は振り向いた。久坂は眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている。

「お前には問い質さねばならんことが山ほどあるようだが……、今は桂さんへの報告が先だ。ついてこい」

 久坂は隠し刀の返事も待たず歩き出した。正面入り口の広間に戻り、「撤退だ!」と声を張る。こういう号令をかけるのに、久坂の声は持って来いだ。良く通るその美声には、皆が耳を傾ける。
 二人は正門を出た。突入前、桂とこの辺りで別れた。再びここで落ち合う手筈だったが、周囲を見回しても桂の姿が見当たらない。

「桂さんたちはどこだ?」
「……ここは人目につくから、留まっていられなかったのだろう」

 辺りは騒然としている。米国領事館を遠巻きにする野次馬たちは、日本人も異人も一緒くただ。見た目や話す言葉は違っても、どうやらどれも「人」に違いないらしい。
「しかたない、行くぞ」と言って久坂が先を歩き出す。隠し刀も黙ってついていった。
 本町方面へ向かってすぐ「君たち! こっちだ!」と二人を呼ぶ声がした。薄暗い小路に桂と高杉の姿がある。大きく手を振る桂に誘われ、二人も小路に滑り込んだ。

「やあ、無事だったか!」

 桂は心底安堵したような笑顔を見せ、それからすぐ「すまなかった」と眉を下げた。

「何も知らせずに移動してしまって、驚いたのではないか? 思っていた以上の騒ぎになってしまったものだから、あの場に留まってはいられなくてね。だが、すぐに合流出来て何よりだ」
「桂さん、それより急ぎ報告しなければならないことが」

 久坂がずいと前に出た。相変わらず、眉間に深い皺を刻んでいる。桂は「久坂くん、落ち着きたまえ」と言って、久坂の肩に手を置いた。

「ハリスを逃がしてしまったことならすでに聞いている。初動で皆の動きを御せなかった私の落ち度だ」
「しかし、目前で逃亡を許してしまったのは」
「そこまで辿り着けただけでも大したものだよ」

 桂はそう言って、久坂から離れた。そうして今度は隠し刀の方を見る。

「君の方はどうだい? 『黒船に乗ってきた侍』とは会えたかね?」
「……ああ。だが、ハリスと共に逃げてしまった」
「そうか、君の腕をもってしても駄目だったか……」

 桂が腕を組む。久坂がちらりとこちらを見た。あの闖入者ちんにゅうしゃについて、何か言いたいのだろう。隠し刀はどうしたものかと悩み、しかしそうしている間に高杉と桂が話を進めてしまった。

「奴ら、準備が良すぎた」

 と高杉が低い声で言う。

「誰かが米国に密告したのかもな」
「やめんか、高杉くん。気持ちはわかるが、誰かに当たっている場合じゃないぞ」

 準備が良すぎた、という点は隠し刀も同感だった。そして「密告」と聞いて脳裏を過った人物がいる。それも含めて、確かめに行かなければならない。

「条約は結ばれてしまうだろうが、悔いていても仕方がない。次の手を考えなければ……」

 桂の話を流し聞きしながら、隠し刀は小路の先に目をやった。何を見ようとしたわけではない。ただ何故か、ふと視線が動いていたのだった。
 月の明かりも当たらぬ暗がりの中を、何かが横切った。闇夜に紛れる黒猫のように、姿は見せず、音も立てず、ほんの微かに空気だけを揺らして。
 気づけば、隠し刀は足を踏み出していた。

「おい、どこへ行く?」

 咎めるような声を発したのは久坂だった。

「悪いが、私はこれで失礼する」
「待て! お前には聞きたいことが山ほど……」
「後日、改めさせてくれ」
「そう言って逃げる気ではないだろうな?」
「まあまあ、落ち着いて」

 食って掛かる勢いの久坂を押しとどめ、桂が一歩前に出た。

「一体何があったのかは知らないが、私は君を信じたい。そう思っている」

 隠し刀は桂と目を合わせた。柔らかな表情をしているが、その目には注意深く相手を探る鋭さが垣間見えた。

「この一件で、君も米国や赤鬼に追われる身になってしまったかもしれない。同じ立場にある者として、協力は惜しまないつもりだ。君もそうであってくれたら、と願っているよ」

 隠し刀は何も答えず、桂から顔をそらした。その先で、今度は高杉と目が合った。

「そういや、あんたの名を聞いていなかったな。次会った時にでも教えてくれ」
「……名はない」
「は?」
「好きに呼んでくれ」

 それだけ言い残して、隠し刀は暗い小路の先へ進んだ。丁字路にぶつかって、右を見る。何者かはあちらに向かったはず。
 隠し刀は迷うことなく進んだ。途中で道が分かれていても、その先の暗がりで影が揺れて、隠し刀を誘いざなった。誘い込まれている、という自覚も頭の隅にあったが、それでも足を止めはしなかった。
 木の塀に挟まれた小路を、袖を引かれるように歩いてどれ程経ったか。気づけば、隠し刀は袋小路に入り込んでいた。
 先を塞ぐ塀の上で、満月が煌々と輝いている。ふと、背後で地面を踏み締める足音がした。
 反射的に腰の刀に手を添える。そうして慎重に振り向くと、鳥を模した面の刺客が月明かりの中に立っていた。
 そのことに驚きはなかったが、その気配に寸前まで気づけなかったことには内心歯噛みした。近くにいることはわかっていたのに。
 刺客は刀に手を掛けることもなく、口を閉ざしたまま佇んでいる。いっそ無防備に思えるほどだったが、隠し刀は得物を抜く気にはなれなかった。戦う必要性がない、という理由が一つ。そして、この刺客と刃を交えて勝利する己の姿を微塵も想像出来ない、という理由がもう一つ。
 それほどの実力差があることを隠し刀は理解していた。刀を抜けば、目の前の刺客はこちらを敵として処分するだろう。彼女はそれが出来るし、おそらく躊躇いなくそうする。
 隠し刀は深く息を吐いて、刀から手を離した。

「……宵月」

 呼びかける。刺客は沈黙している。動揺した素振りもない。

「あなたなのだろう?」

 隠し刀はそう続けて、一歩前に出た。

「動くな」

 と、静かだが鋭い声が耳朶を打った。拒絶するような声色ではなかったが、有無を言わせぬ強い響きがあった。
 隠し刀は相手の顔色をうかがおうとしたが、鳥の面がそれを許さない。だが、その声で刺客の正体に対する確信は持てた。

「宵月、やはりあなたが」
「やめろ」

 今度は確かな拒絶が混じっていた。それから、呆れと苛立ちも。隠し刀が思わず口を噤むと、刺客はやや間を置いてから大きなため息をこぼした。

「迂闊に名を呼ぶな」

 刺客が面を外した。その下から現れたのはやはり宵月だった。切れ長の鋭い目が、睨めつけるように隠し刀を見た。

「何のためにこんな格好をしていると思っている?」
「……正体を隠すためか?」
「わかっているなら少しは気を遣え」
「何故隠す必要がある?」

 尋ねた途端、宵月は形の良い眉を寄せた。

「私は遊郭で雇われている身だぞ。あそこの客には幕府の人間や異人もいるというのに、米国領事館襲撃の場に居合わせたと知れてみろ。下手をすれば文字通り首が飛ぶことになる」
「……それは、そうか」

 隠し刀は納得した。宵月は同心や異人からも仕事を受けている、という桂の談もある。それらを加味すれば、彼女が正体を隠すのは当然といえた。
 だが、納得と同時に疑問も一つ浮かんだ。

「そのような危惧を持ちながら、何故あの場に?」
「野暮用だ」

 宵月はそれだけ言って、再び鳥の面で顔を隠した。顎をしゃくり、隠し刀に「ついてこい」と言葉には出さずに伝え、袋小路をあとにする。

「……黒洲の命か?」
「私は脱藩した身だと話したはずだが?」
「だが、あなたは鴟鵂だ」
「今は違う」
「ならば、その面は?」
「これは片割れの形見だ」

 隠し刀は言葉を飲み込んだ。

「私の面は片割れに持たせてやった。あいつは存外寂しがりだったからな。たまにはこうして連れて行ってやらねば拗ねてしまう。まあ、お前らにとっては『鴟鵂』の象徴でしかないのだろうがな」

 宵月は振り返りもせずに話す。隠し刀は口を閉じ、それ以上は何も言わずに宵月のあとをついて歩いた。
 おもむろに、己の首に巻いた襟巻に触れる。五年前の任務のあと、行方知れずとなった片割れを捜索した結果、唯一回収できた彼女の所持品である。隠し刀は、これを肌身離さず持っていた。
 片割れが生きていることが確認できた今では形見ではなくなったが、隠し刀にとって大事な物であることに変わりはない。
 隠し刀は宵月の細い背を見つめた。彼女の片割れがいつ、どのようにして亡くなったのかは知らない。少なくとも五年以上は前のことだろう。だが、隠し刀は『鴟鵂』が片翼を失ったという話を耳にしたことがなかった。
 片割れを失ったあとも、宵月は一人で『鴟鵂』として任に当たり、片割れの面をつけ、片翼とは思えぬほどの働きをしていた。そういうことだろう。
 それだけの実力があるということは、米国領事館で対峙した時からわかっていた。宵月が黒洲の命を受けていたのなら、隠し刀が今、こうして生きているはずもない。片割れも、あの場に居合わせてしまった久坂も。
 そもそもあの時、宵月が異人を殺して砲銃を止めていなければ、隠し刀の命はなかったかもしれないのだ。
 そう、自分は助けられたのだ。その事実に今更気がついて、隠し刀は己を恥じた。一寸でも、彼女が黒洲の刺客なのではないかと疑ってしまったことが申し訳なかった。
 謝りたいと思ったが、前を行く背に何と声をかければいいのかわからなかった。
 宵月、と呼び掛けてはまた怒られる。鴟鵂、と呼ぶのもおかしいだろう。彼女はもう『鴟鵂』ではないのだから。
 そういえば、鴟鵂にはそれぞれ名があったはずだ。確か「ふくろう」と「みみずく」。今にして思えばあまりにも安直である。しかし、名がないよりはいい。
『隠し刀』は特定の名を持たない。どこにでも紛れ込み、あらゆる身分や職業の人間に成り代われるように。
 その点『鴟鵂』は、そういった潜入任務には従事しない。彼らの仕事は、黒洲にとって不利益となる存在の排除。ただそれだけだ。何者かに成り代わる技術を必要とせず、ただひたすらに鋭い刃であることを求められた存在。優れた刀に「号」がつけられるように、名を持つことを許された唯一の『隠し刀』。
 個々の名を持つ『鴟鵂』に対して、隠し刀は憧れのような感情を抱いたこともあった。元服前の、幼い時分の話である。
 ふと、隠し刀は先程の高杉との会話を思い出した。次に会った時にでも名を教えてくれ。そう言われて「名はない」と答えたあの短いやり取り。あれは嘘だ。隠し刀は己の名を持っている。元服した時、片割れと共に決めた名がある。
 だが、隠し刀はそれを片割れ以外に教える気はなかった。そもそも諱いみなというものは、他人に教えるものではないと聞く。皆が名乗っている名も、諱ではなく通称のはずである。
 宵月、もそうなのだろうか。隠し刀は考えた。彼女が「ふくろう」だったのか「みみずく」だったのかはわからないが、どちらよりも「宵月」の方が彼女に良く似合っている。
 隠し刀は空に浮かぶ月を見上げた。宵月は、月明かりを正面に受けながら進んでいる。歩き出してから、彼女はずっとそうしている。月が背後に回る時は、必ず影の中を歩いた。己の影が前に落ちぬように。隠密の基本だ。
 宵月という名は、自分でつけたのだろうか。誰かからもらったのだろうか。彼女の諱、ということはあるまい。
 宵月が道を逸れ、横手の小路に入った。少し進んだところで立ち止まり、軽々と塀を乗り越える。隠し刀もそれに続いた。そうして地面に足をついて顔を上げたところで、はたと気づいた。前方に、遊郭の灯りが見える。隠し刀が借りている長屋のすぐ近くだった。

「ではな、隠し刀」

 宵月はそう言って遊郭の方へと歩き出した。

「待ってくれ」

 隠し刀は慌てて呼び止めた。

「私に何か用があって誘い出したのではないのか?」
「いいや? お前が余計なことを言う前に、あの長州の藩士どもから引き離しておこうと思っただけだ」
「余計なことなど」
「領事館で、私を呼び止めようとしただろう? 片割れの名を呼んでもいたな? そういうところが迂闊だと言っている」

 反論の余地もない。隠し刀は「すまない」と謝罪を口にした。

「精々気をつけろ。でなければ、いずれお前を始末せねばならなくなるかもしれん。が、出来ればそうはしたくないのでな」

 口ではそう言うが、実際そうなったら宵月は躊躇わないだろう。その一方で、こうして忠告してくれているのだから、これは彼女の本心なのだろうとも思う。
 そこまで考え、隠し刀は宵月に話しておかなければいけないことがあることを思い出した。先日の、桂たちとのやり取りについてである。

「……少し時間を作れないだろうか。あなたに話しておかなければいけないことが……」
「今である必要が?」
「いや……。だが、早い方がいいとは……」
「なら、明日改めて訪ねてこい。昼見世の頃なら余裕がある」
「わかった」

 隠し刀が頷くと、宵月は今度こそ遊郭へと帰っていった。
 その後ろ姿を見送ってから、隠し刀も長屋へ戻った。

「おう、遅かったじゃねえか」

 戸を開ければ、権蔵が当然のような顔で隠し刀を出迎えた。この男は、もうほとんどこの長屋に住み着いているようなものだった。ここにいなければ、大抵は港崎の賭場にいる。
 隠し刀も長屋を空けていることが多いので、あまり気にせず好きにさせることにした。盗られて困る物もないが、番犬代わりに丁度いい。

「山下の方ででけぇ騒ぎがあったらしいぜ。あんた何か知ってるか?」
「……さあ、知らんな」

 隠し刀は澄ました顔を繕った。しばらくは大人しくしておいた方が良さそうだ。