白い風、宵の月 第1章03

03 櫻屋

 翌朝、隠し刀は遊郭から帰ろうと外に出たところで龍馬と出くわした。彼もここで一夜を過ごしたらしい。

「おまん、黒船に乗ってきた奴を探しよるらしいのう」

 隠し刀は龍馬と目を合わせた。彼にはそこまでは話していなかったはずだ。

「誰から聞いた?」
「たかさんからじゃ。ほいで、宵月さんを紹介してもらったち聞いたけんど、何か収穫はあったかえ?」
「あったが……宵月を知っているのか?」
「わしもこの前おうたがじゃ! 遊郭で用心棒をしよる女浪人ちいうから、どんなおなごか思っちょったら……いやあ、あれは驚いたのう」

 龍馬の言う「あれ」が何を指しているのかはわからないが、「驚いた」という点は隠し刀も同感である。

「聞いた話やと、用心棒の他にも町であれこれ用聞きして回ったりもしちょるそうじゃ。そんおかげで、顔が広うて噂話にも詳しいっちゅうことらしい。おなごの身で凄いもんじゃと思わんかえ?」

 町で借りた長屋への道を歩きながら、龍馬は身振り手振りで話している。また誰かとぶつからなければいいが。そんなことを考えながら、隠し刀は龍馬の話に耳を傾けた。

「なんでも、たかさんはここに来る前、京都で芸者をしちょったそうでの。宵月さんとはそっちでおうて、この港崎遊郭が出来てから揃って移って来たんじゃと。ここは異人の客もおるき、何かと問題も多かったそうじゃが、宵月さんが用心棒になってからは問題を起こす客も減ったち聞いちょる。余程腕が立つんじゃろう」

 隠し刀は、龍馬の耳の速さに素直に感心した。それと同時に、僅かばかりの嫉妬と後悔があった。
 昨夜、宵月と話をした時、自分も少しは彼女自身について尋ねておけばよかった。一夜明けて、頭が冷えた今になってそう思った。
 何故そう思うのか、隠し刀は考えてみた。『隠し刀』として育ち、片割れを失い、藩を捨てた。その境遇が自分と似ているからだろうか。脱藩して以来、初めて出会った追手以外の同郷の人間だからだろうか。或いは、彼女が少し、己の片割れに似ているからだろうか。

「顔が広い言うたら、桂さんもそうじゃ。昨日はあれじゃったが、あん人も物知りな御仁での。時々面白い仕事を回してもらえることもあるがよ。おまんも、仲良うしておいて損はない。もう酔いも覚めちょろう。改めて話してみたらどうかえ?」

 気づけば、長屋の前まで歩いてきていた。
 桂小五郎といえば。昨夜、彼がいるという座敷で隠し刀が耳にしたのは「ハリスの館をどう攻めるか」という会話だった。
 もし、その襲撃計画が実行されたら。ハリスの護衛だという黒船の侍も、おそらくその場に現れるだろう。

「……そうだな。お前がそう言うのなら、会ってみよう」
「それがええ! 桂さんは確か『櫻屋』いう旅籠に泊まっちょるぜよ。わしの紹介じゃ言うたら、きっと相談に乗ってくれるき」
「ああ、わかった」
「ほいたら、わしは引き続き松陰さんを探してみるぜよ。あん人を見つけたら、おまんにも会わしちゃるきに。きっとじゃ!」

 それから龍馬は、困ったことがあったらいつでも呼んでくれ、と言い残して去っていった。
 先日、権蔵も同じようなことを言っていたな。隠し刀はそんなことを思い出しながら、長屋の戸を開けた。

「おう、待ちくたびれたぜ」

 そんな声に出迎えられて、隠し刀は開ける戸を間違えたかと思った。権蔵だ。権蔵が部屋にいる。何故? この長屋が自分の居所だとは教えていないのに。
 隠し刀は戸を閉めた。そうだ、櫻屋へ行こう。うまく立ち回れば、思ったより早く「黒船に乗ってきた侍」に近づけそうだ。
 権蔵の騒ぐ声を無視して、隠し刀は足早に歩き出した。

 櫻屋はどこにあるのだろう。隠し刀はふらふらと横浜の町を彷徨った。道行く人に尋ねればいいだけなのだが、隠し刀の頭にその選択肢は入っていなかった。
 人目を避け、日陰の中で生きてきた者の性が、ここで遺憾なく発揮されている。そもそも、隠し刀は生来から少し引っ込み思案というか、自ら進んで人と関わろうとする性格ではなかった。そんな自分を、一つ年嵩で気の強い片割れが引っ張ってくれていた。
 だからといって、片割れがいなければ何も出来ない、なんてことはない。事実、隠し刀はこの五年間一人で生きてきたし、彼女を探し出すためにも消極的なままではいられない。それでもやはり、人との関わりは必要最低限で済ませがちだ。

「奇遇だな、隠し刀」

 背後から聞こえた声に、隠し刀は驚いた。振り向いたら、思ったより随分近くに宵月が立っていた。あと一歩踏み込めば、相手に刀が届く距離だ。そこまで近づかれていることに、隠し刀は声をかけられるまで気づかなかった。

「もう少し周囲に気を払った方がいいぞ」

 宵月が腰に差した刀に触れながら言った。隠し刀は返す言葉もなく、眉を下げた。

「それで、こんなところで何をしている? 早速マシュー・ペリーの顔でも拝みに?」

 宵月の言葉で、隠し刀は今自分がどこにいるのか気がついた。龍馬と再会したあの時計台だ。

「……ここが貴賓館だったのか」
「なんだ、知らずに来たのか?」
「櫻屋という旅籠を探していたのだが」

 宵月は怪訝そうな顔をした。

「あれは馬車道の方だぞ。お前が向かっている方とはほぼ真逆だ」
「……そうなのか」
「まさかの迷子か。そんな調子で良く生き延びたものだな?」
「……横浜には詳しくないだけだ」
「素直に『案内してくれ』と言えばしてやっても構わんが?」
「……頼む」

 宵月は声を立てて笑った。隠し刀は情けないやら気恥ずかしいやらで、宵月から目をそらした。

「いや、すまん。お前のような『隠し刀』もいるものかと思ってな」

 ついてこい、と言って宵月が歩き出す。隠し刀は黙ってその背を追った。

「実はな、私の片割れも方向感覚のない奴だったのだ。どうにかならないかといろいろ試してみたが、ついぞ治りはしなかった。生きていれば、お前とは気が合ったかもしれんな。……いや、もしそうであったら私は今も『隠し刀』でいるだろう。であれば、友好などあり得ん話だな」

 背後について歩く隠し刀には、宵月がどんな表情をしているかわからない。一体何を考えて、こんな話をしているのか。口振りはまるで世間話でもしているようだが、心の内までそうだとは限らない。
 何か気の利いたことでも返せれば、と思うが、隠し刀は自分が口下手だという自覚があった。
 そうやって内心まごまごしていると、不意に宵月が立ち止まった。振り向いて、隠し刀を手招く。

「あの建物、あれが横浜町会所時計塔だ」

 宵月が指差した方には、石造りの洋館があった。二階建てで、その上に高い時計塔が建っている。

「この辺りでは貴賓館の時計台と並んで高い建物だ。道に迷った時の目印にするといい」
「……迷っていたわけでは」
「因みに、貴賓館の向こう側に米国領事館がある。ハリスの居所だな」

 囁くような声で耳打ちされる。隠し刀は思わず振り返った。あの先に『黒船に乗ってきた侍』が――片割れがいるかもしれない。

「今は場所を覚えるだけにしておけ」

 宵月はそう言ってまた歩き出す。隠し刀は後ろ髪を引かれる思いでそれに続いた。そして、ふと思った。

「あなたは、こっちに何か用があったのではないのか?」
「気にするな、大した用ではない。――ここを右に行くと本町の写真館があるのは知っているな? そこからもっと先まで行くと、異人共の居留地だ。横浜に初めて出来た西洋風の屋敷があって、地元の者たちは『英一番館』と呼んでいる」

 話をそらされた。本当に大したことではないのなら、こんなふうに話題を変える必要などないはずだ。

「宵月」

 呼びかけると、宵月は深々とため息をついた。

「まったく……。焦るなと言っただろう? お前も領事館に行こうとしているのではないかと思って声をかけたが、裏目に出てしまったな」

 そう言いながらも、宵月は足を止めない。領事館とは逆の方へとどんどん進んでいく。隠し刀はそれをついて行くしかない。

「こうなったら致し方ない。お前も手伝え」
「何をすればいい?」
「櫻屋へ行け」
「行って何を?」
「お前は何をしに行くつもりだった?」
「桂小五郎に会ってみようと」
「何のために?」
「人を探しているなら彼に相談してみるといい、と龍馬が。彼は顔が広く、物知りで、仲良くしておいて損はないと。何か面白い仕事を回してくれることもあるとも言っていた」
「理由はそれだけか?」

 探るような目つきで見られて、隠し刀は一瞬黙った。理由はもう一つある。こちらの方が本命だ。そしてこれは、彼女に対して隠しておくようなことではない。
 隠し刀は宵月へと体を寄せ、声を潜めた。

「昨夜、遊郭で気になる話を聞いた。ハリスを襲撃する計画を立てていたようで、それを話していたのが……」
「桂小五郎がいると言われて向かった座敷だな?」

 流石に把握済みらしい。

「まったく、お前は運がいいな。坂本から聞いたが、お前らはつい最近、偶然知り合ったらしいそうではないか。たかとのこといい……お前にとって必要な因縁が自然と集まってきているようだ」

 言われてみれば、確かに。あの時龍馬と出会っていなければ。あの時たかとぶつかっていなければ。土佐藩士との一件を宵月が見ていなければ。きっとこうはなっていない。

「今日はその襲撃計画について調べるつもりでいたのだ。それで何かわかれば、お前に教えてやろうと思っていたのだが……。どうやら、お前の方が適任のようだな」
「ああ、任せてほしい」

 そう答えると、宵月はふと眉を寄せた。

「いいか、あまり無茶はするなよ。お前に何かあっては寝覚めが悪い。……お前は、私の片割れに少し似ているものでな」

 隠し刀は驚いた。その間に、宵月はもう先へと歩き出している。「櫻屋はそこの辻を右だ」と、何事もなかったかのように言う。
 あなたも、私の片割れに似ているのだ。隠し刀はそんな言葉を飲み込んで、彼女に続いた。
 辻の先から、三味線の音が聞こえている。宵月と並んで道を曲がると、すぐ左手に『櫻屋』という屋号を染め抜いた若草色の暖簾が見えた。その店先の縁台で、男が三味線を弾いている。更にその奥に、壁に寄りかかって立つ桂小五郎の姿があった。
 宵月が隠し刀をつつく。促されて、隠し刀は前に出た。

「ん? 君は……どこかで会ったような……」

 桂の視線が隠し刀を捉え、それから宵月を見た。目を丸くして驚き、すぐに眉を下げて視線を泳がせた。

「君は遊郭の……。宵月さん、だったね? その、私に何か用だろうか?」

 三味線の音が止まって、それを弾いていた男が顔を上げた。しげしげと宵月を見ている。

「私が? お前に? 何か思い当たる節でも?」
「いや、そんなことはない……と思うが……」
「そうであってほしいものだ」

 宵月は冷ややかな目をしている。桂は何故か不安そうだ。どうやら、この二人の間で何かあったらしい。

「今日は遊郭の使いではない。こいつが『櫻屋に行きたいが場所がわからない』というので案内しただけだ」

 桂の視線がまた隠し刀に向けられた。

「そうか、それを聞いて安心したよ。ええと、それで、君は?」
「龍馬に紹介された者だ」

 答えると、桂は「おお、そうだ!」と声を弾ませた。

「あの時は幕府の密偵かと疑ったが、坂本くんの連れだったとは」

 昨夜のことを思い出したらしい。

「重ね重ねすまん。あの夜のことは曖昧でな」

 訂正だ。よく覚えていないらしい。あれだけ酔っ払っていたのだから然もありなんといったところである。

「また酒に飲まれてしまったと?」

 櫻屋の戸が開いて、中から男が出てきた。その口振りから察するに、桂がああして酩酊するのは良くあることのようだった。

「面目ない……。おかげで、この御仁に剣で打ち負かされてしまった。いや、酔ってなくとも危うかったかもしれないな」

 男たちの視線が隠し刀に集まった。

「君は実に筋がいいようだが、見たところ我流だろう? 一度、名のある道場の門を叩くことをお勧めするよ」

 我流というわけではないが、『隠し刀』にのみ受け継がれてきた流派である以上、桂がそれを知らないのは当然だ。まして、これは『二人一組』で真価を発揮する特殊な武術である。隠し刀一人では、ある意味「我流」と言えなくもない。

「この久坂玄瑞くさかげんずいくんも、道場で剣の腕を磨こうとしているところでね」

 桂が、櫻屋から出てきた男の隣に立った。隠し刀より二つ三つ年下に見えるが、背が高く、秀麗な顔立ちをした男である。

「学問も並みではないぞ。なんせ吉田松陰の一番弟子だ」

 久坂は礼儀正しく頭を下げた。そうして前へ出てくると「この町では、異人共が我が物顔で闊歩している」と、良く通る声で語り出した。

「奴らを海の向こうへ追い返すには、筆より剣の力が必要だ。今こそ、日本刀の切れ味を見せる時。この国はそもそも、天地始めの時……」
「やれやれ」

 と、男の声が久坂の話を遮った。

「俺は賭場に行ってくるぜ。このところ、懐具合が寂しいんでね」

 縁台で三味線を弾いていた男が、おもむろに立ち上がりながら言った。

晋作しんさく、なんだその態度は? 客人に無礼だとは思わないのか」

 久坂が眉を吊り上げて咎めるが、男はどこ吹く風といった様子だ。隠し刀を見て「あんたも来るかい?」と言って口角を持ち上げてみせる。

「何やら運を持っていそうだ。たまたま生き残っただけって顔をしてるぜ?」

 心臓に棘を刺されたような気分だった。まったくその通りだ、と隠し刀は思った。黒船から自分が生きて帰れたのは、あの時密書を持っていたのがたまたま自分だったからだ。

「お前はその男に用があるのだろう?」

 ずっと黙っていた宵月が、不意に口を挟んできた。皆の視線が動く。隠し刀も後ろを振り返った。宵月は腕組みをして隠し刀を見つめ、

「まあ、どうしても賭場に行きたいというのなら構わんが。お前には向いてないと思うぞ」

 と言った。

「あんたはこいつの保護者か何かかい?」

 三味線の男が皮肉を言う。宵月は男を一瞥して、またすぐ隠し刀に視線を戻した。眉を下げ、困ったような顔をしている。

「……お前が不快に思ったのなら、謝る」
「いや、そんなことは……」
「同郷の者と会ったのは久々なせいか……。つい、余計な世話を焼いてしまった」

 宵月はひどく申し訳なさそうな様子だ。これは演技だろう。そうとわかっていても、隠し刀は気が引けてしまった。

「謝る必要はない。あなたには感謝している」
「……ならば良いのだが」

 眉を下げた笑みで宵月が言う。見事なものだ、と隠し刀は思った。
 里では、他者を魅了して懐に入り込む術も教えていたが、隠し刀の性には合わなかった。宵月には適性があったに違いない。その美しい顔立ちもあいまって、大抵の男は誑かせたことだろう。顔の傷がなければ、おそらく今も、用心棒などではなくもっと違う形で……。
 隠し刀はそこで思考を閉じた。何故だか気分が良くなかった。

「では、私はそろそろ帰らせてもらう。あまり油を売っていると楼主の小言をもらいかねん」
「ああ、わざわざすまなかった」
「同郷のよしみだ、気にするな。また何かあれば訪ねてくるといい」

 宵月が踵を返すと、その行く手に三味線男が立った。

「遊郭へ戻るのか?」
「だったらなんだ?」
「いやなに、途中までご同伴させていただこうと思ってね。あんたとは、ずっと話をしてみたいと思っていたんだ」
「ふむ、まあ、構わんが。ところで、お前は誰だ?」
「おっと、これは失礼した。高杉晋作だ。よろしく頼む、宵月さん?」
「ああ、お前が高杉か」
「なんだ、俺を知っているのか?」
「名前だけな。店の女たちがお前の話を――」

 二人は連れ立って歩き出し、その声もすぐに雑踏に紛れて聞こえなくなった。
 隠し刀がその背を見送っていると、ごほん、と誰かが咳払いをした。

「話がそれてしまったが……」

 桂だ。彼はそう言って仕切り直し、隠し刀と向き合った。

「改めて、君の用向きを聞こうか」