02 宵月
面倒なことになった。隠し刀は後悔していた。
写真機とやらでただ遊郭を撮影するだけ、なんてそんな単純な話ではないだろうとは思っていたが、まさかこんな事態になろうとは。
まず、写真機の入手から随分と手間がかかった。本町の写真館まで行ってみれば、店の前に幕府の役人がいるわ、肝心の写真機は故障中だわ、修理したくとも設計図は賊に盗まれてしまって手元にないわで、結局隠し刀がその設計図を取り戻しに行くことになった。
因みに、この写真機の発明者である飯塚伊賀七という男は、隠し刀が石川の代官屋敷で手に入れた滑空装置の発明者でもあった。
その石川で退治した賊の頭目――権蔵という名の男だが、隠し刀はあの時これを殺さずに見逃してやった。それが何の因果か。設計図を盗んだ賊の根城である蒔田に向かう途中で、その男と偶然再会したのだった。
権蔵は隠し刀の強さに感服したと言い、何故か蒔田城跡までついてきた。そのまま賊退治を手伝ってくれて、また何かあったら呼んでくれ、と言って去っていった。奇妙な縁もあるものである。
そんなこんなで設計図を取り戻し、その謝礼として新型写真機の試作品を手に入れ、隠し刀は港崎遊郭まで戻ってきた。そこからがまた厄介だった。
たかは「遊郭の賑わい」を撮影してくれと言ったが、指定されたいくつかの座敷では、賄賂やら抜け荷やらと、とても穏やかとは言えない内容の話が聞こえてきた。
遊郭は様々な噂が行き交う場所。となれば、これも確かに「遊郭の賑わい」なのかもしれないが、要はこれは間諜をやらされているだけだった。
だが、これで片割れの情報を得られるのなら。そう考えれば、隠し刀はこの状況も甘受出来た。そもそも潜入や暗殺などをこなしてきた身である。そういった行為に対する抵抗もない。
それでも、この仕事を引き受けたことを少しばかり後悔してしまったのは、最後にもう一部屋と頼まれて向かった先で、面倒な酔っ払いに絡まれたがゆえだった。
その男は、呂律も足取りも覚束ないほど酩酊していたが、写真を撮る現場を見られ、ひどく酒臭い息で詰られ、裏庭に連れ出されたかと思えば、突然斬りかかってきたのである。
「幕府の回し者め……、斬り捨ててくれる」
誤解だ、と弁明したくとも、この酩酊状態では何を言っても通じないだろう。隠し刀は仕方なく刀を抜いた。
この酔いどれ侍、おそらくかなり腕が立つ。とはいえ前後不覚の酔っ払いである。隠し刀の相手ではない。
それでも、この場を収めるのに少し苦労した。ばっさり斬り捨ててしまうわけにもいかず、しかし、酔っ払っているせいで逆に動きが読みにくくてやりづらい。なるべく怪我をさせないよう留意して刀を振るいながら、隠し刀は何故自分がこんなことを、と思わずにはいられなかった。
「かくなる上は、出すしかあるまい。見よ、我が奥義……」
ようやく倒れた酔いどれ侍は、そんな譫言を言いながら眠ってしまった。
さて、これは一体どう処理したら良いものか。そんなことを考えてため息をこぼした時だった。隠し刀は、ふと何者かの気配を感じ取った。鳥か猫かと思うほど微弱な気配だが、確かに――
「なんじゃ、おまんか」
背後から聞き覚えのある土佐訛りの声がして、隠し刀は振り返った。龍馬が不思議そうな顔をして近づいてくる。
「こんなところで何をしとるがじゃ」
「ちょっと野暮用でな」
隠し刀は刀を鞘に戻しながら答えた。ついでに周囲へ視線を走らせる。遊郭の華やかな明かりの中にも、その影に落ちた暗がりの中にも、龍馬以外の人影は見当たらなかった。
隠し刀の隣まで来た龍馬は、目の前に座り込んでいる男の顔を覗き込んだ。そうして驚きと飽きれ混じりの声を上げた。
「あちゃー、桂さんに絡まれちょったがかえ?」
「知っているのか?」
「知っちょるも何も、一緒に松陰さんを探しちょるお人じゃ。桂さんは松陰さんの弟子であり、親友でもあるきのう」
龍馬は酔いどれ侍改め桂の頬を軽く叩く。桂は気持ちよさそうな顔で眠っている。
隠し刀は酒で赤いその顔を見つめ、こいつが桂小五郎本人だったのか、と思った。最後に向かった座敷で遊んでいるのがその男である、とたかから聞いていたのだった。
「まったく、こん人は懲りちょらんのう」
桂に肩を貸して支え起こしながら、龍馬が呆れ果てた様子で言った。
「ついこないだもこじゃんと酔うてな。素っ裸で踊った挙句、どっぱーんと池に……」
「おお、坂本くん!」
桂が目を覚ました。自分を抱える龍馬を見て、へらへらと笑っている。
「すまんすまん、ちょっと野暮用でね」
もう隠し刀のことは視界に入っていないのか。桂は龍馬に支えられながら、ふらふらと、しかしご機嫌な様子で歩いていく。
「よし、飲み直しといこう! なあ、いいだろう? ここは私が持つから!」
あれだけ酔っていながらまだ飲む気らしい。隠し刀は呆れとも関心ともつかぬ思いで二人を見送った。
そこに、また人が近づいてくる気配がした。視線を向ければ、今度はたかが顔を覗かせた。
「裏で乱闘騒ぎと聞いて来てみれば……、桂様と貴方でしたか」
たかの口振りは責めるようなものではなかったが、隠し刀は少しばつが悪かった。もとはと言えば、たかの頼み事が発端ではある。だが、荒れた庭や壊れた灯篭が視界に入ると、隠し刀は何も言えなくなってしまった。
たかと共に二階の座敷に戻って、撮った写真を手渡すと、彼女は目を細めて笑った。
「遊郭の賑わいが綺麗に映った良い写真ですこと」
この女がただの芸者ではないことは明らかだった。だが、彼女が何者であろうと、隠し刀には最早どうでもいいことだった。ようやくここまで来たのだ。片割れの情報が手に入るなら、相手がどんな人間だろうと構わない。
「もう充分だろう。黒船の侍について教えてくれ」
「あら、ごめんなさい。そうでしたわね」
たかは受け取った写真を丁寧にしまってから、改めて隠し刀と向き合った。
「米国の領事館に呼ばれた時に、噂を聞いたのです。この領事館に黒船に乗ってきた侍がいる、と。その者は、片方の手が鬼のようになっていて……。今はハリス様を守る役目についているとか」
鬼のような手? 隠し刀には、それがどんな物なのか想像もつかない。しかし、五年前のあの時、あの黒船で、密書を持った自分を逃がすために残った片割れは、その左腕を失った。彼女の腕が切り落とされ、その体が崩れ落ちたところを、隠し刀は視界の端で見た。
きっと何か関係がある。その侍の正体を確かめなくては。そのための情報を得ようと、隠し刀は口を開いた。
「そのハリスというのは何者だ」
「この国と大切な条約を交わすためにいらっしゃった方ですわ」
つまりは米国の重要人物。四年前に日米和親条約を結んだマシュー・ペリーと同等の存在、といったところか。
黒船の侍に会うためには、ハリスとやらと接触するのが手っ取り早そうだ、と隠し刀は考えた。そう簡単な話ではないことくらい重々承知である。それでも、必要なら何でもやる覚悟が隠し刀にはある。
「そういえば」と、たかが言った。
「おきちがハリス様と懇意にしているんです。後で、ハリス様について詳しく聞いておきましょう。それから、この手の噂に詳しい方を紹介する、という約束でしたわね」
たかは相変わらず綺麗に微笑んで、
「もうこちらにいらしておりますわ」
と、右手で横を指し示した。屏風が一隻、鎮座している。隠し刀はまさか、と思った。今の今まで人の気配など感じなかったのに、たかが声をかけた瞬間、そこに何者かの気配が湧いて出た。
「驚きましたでしょう? こちら、この遊郭で用心棒をしてくださっている宵月さん。この通り、とても優れたお方なのですよ」
屏風の向こうから衣擦れが聞こえて、行燈の明かりに人の影が浮かぶ。現れたのは、左の目と頬に大きな傷のある女だった。
宵月、と呼ばれた女は、たかの横に立って隠し刀を見下ろした。切れ長の鋭い目をしている。こちらを品定めするその視線に、隠し刀は少し居心地悪く思った。
「それでは、私は失礼いたしますわ」
退室の意を示したたかは、宵月を見上げて「あとはお願いしますね」と言った。
「お話が終わりましたら、今夜はどうぞこちらでお休みになってください」
そう言い残して、たかは座敷をあとにした。
「人を探しているそうだな」
襖が完全に閉じられたあと、宵月が口を開いた。それまでたかが座っていた座布団の上に胡坐をかき、煙草盆を引き寄せる。
「黒船に捕らわれたと聞いたが?」
「そうだ」
「いつ頃の話だ?」
「……五年前になる」
「ふむ、黒船が初めてやってきた時か」
宵月は煙管を持って、慣れた手つきで葉を詰めた。そうして火をつけて一口吸うと、不意に隠し刀を見て目を細めた。
「そうか、お前か。あの時黒船で騒ぎを起こしたのは」
隠し刀は驚いた。あの時のことは確かに小事で片づけるには事が大きすぎたが、だとしても事態を知っている人間は限られている。里でも、任務を『与えた者』と『与えられた者』しか知り得ないことだ。
「……何故それを知っている?」
「何故? おかしなことを聞く。ここがどこだか忘れたか?」
宵月は天井に向けて煙を吐いた。
「酒と女を前にすれば、男の口なんて軽いものだ。お前もそれを目の当たりにしてきたばかりだろう?」
そう指摘され、隠し刀は押し黙った。たかから頼まれた遊郭の写真は、まさにその瞬間を捉えたものである。
だが、そこまでの事情を知っているのなら何故、彼女が写真を撮らなかったのか。まったくの余所者である自分に、何故間者の真似事などさせたのか。そのおかげでこうして話を聞けているわけではあるが、隠し刀は疑問だった。
「何か言いたそうな顔だな?」
宵月が急にそんなことを言うので、隠し刀はまた驚いた。まさか顔に出ていただろうか。動揺する隠し刀を見て、宵月は口の端を持ち上げた。
「私はこれでも存外忙しい身でな。それに、ここいらでは少しばかり有名だ。この顔もな。まあ、見ての通り、一度見れば忘れられん顔だ」
反応に困ることを言う。隠し刀は何と答えてよいかわからず、薄暗い行燈に照らされた女の顔を見た。
その肌に走る大きな傷跡に視線が行きがちだが、よく見れば大層整った顔立ちをしている。何よりその、猛禽類を思わせる鋭い双眸。確かに、一度見れば忘れはしないだろう。
「だからまあ、下手に動くわけにもいかなくてな。そもそも、噂の写真機を手に入れる時間もない。さてどうしたものか、と考えていたところに」
宵月は煙管を隠し刀に向けた。
「お前が来た」
「……それだけの理由で私を?」
「まさか。ちゃんと『使える』か見定めた上だ」
「一体いつ……」
「お前とお前の連れ……坂本龍馬だったか? 遊郭の近くで騒ぎを起こしたろう?」
龍馬を追ってきた土佐藩士と斬り合った、あの時か。隠し刀は合点がいった。
「見ていたのか」
「偶然にもな」
「本当に偶然か?」
「そう勘繰るな。こう見えて私も結構驚いているのだぞ?」
宵月が煙管を吸って、深く、長く、煙と共に息を吐いた。
「こんなところで『隠し刀』に会うなんてな」
紫煙の向こうにある目が、抜き身の刃のような鋭さで隠し刀を射貫いた。殺気を感じたわけではなかったが、隠し刀は反射的に身構えていた。
しかし、目の前の女は一瞥をくれただけで、もう既に隠し刀から視線を外している。それどころか、悠長に煙管の手入れを始めている。
「そこで動揺しては相手の思うつぼだぞ。常に感情を御し、何事にも動じぬように、と里で習ったろう?」
「……お前は、一体何者だ?」
「お前と同じだ、隠し刀」
宵月は煙管を煙草入れにしまった。それから、背筋をすっと伸ばして、
「私も元、隠し刀だ」
そう言って隠し刀を真正面から見据えた。彼女はほんの少し居住まいを正しただけである。それでだけ、纏う空気が一変した。冴えた月夜のような静謐さに、自然と隠し刀も背筋を伸ばして座った。
「五年前、里が幕府隠密に襲撃された時、私は丁度任務に出ていてな。戻ってきたら、山で火の手が上がっているのが見えた。私は、そのまま里へ戻らず国を出た。あの頃には、私はとうに片割れを失っていて……。黒洲がどうなろうと、最早どうでも良かったのだ」
宵月は抑揚のない声で話す。本当に、すべてどうでも良かったのだ、とその声が物語っていた。
片割れを失った隠し刀。己が半身と引き裂かれた者。その痛みを抱えた者が目の前にいる。隠し刀は膝の上で拳を握った。かける言葉がわからない。
「寧ろ、里が燃えて実に清々したよ」
ふと、宵月の声色が変わった。
「奴ばらめ、私が片割れを失ったことなど気にもかけず散々こき使ってくれてな。燃える里を見て『ざまあみろ』と吐き捨ててしまった」
おどけた調子で宵月は言う。それが本心であるか、ただの虚勢であるか、隠し刀にはわからなかった。だから結局、返す言葉が出てこず口を結んだ。
そんな隠し刀を見て、宵月は「本当にわかりやすい奴だな」と目を細めた。どこか遠くを見るような表情だった。
「私は、私と同じように片割れを失った『隠し刀』を幾人か見たことがあるが、その末路は大抵むなしいものだった。お前はそうならんようにな」
宵月は、隠し刀が何のためにここへ来たのか、もうすべてわかっているようだった。その上で、自分のようにはなるな、と心を砕いてくれている。
ありがたい、と思う。必ず片割れを見つけ出さなくては、と隠し刀は再三の決意をした。
「さて、では本題に入るか」
仕切り直しとばかりに宵月が言った。
「――と言っても、黒船の侍の情報は私もまだあまり持っていなくてな。米国領事館でハリスの護衛をしているようだが、下手に探りに入れんのだ。相手が『隠し刀』なら、気取られる可能性があるからな。お前が私に気づいたように」
「……やはり、先程外で感じた気配は」
「桂小五郎はあれで腕が立つ。状況次第では割って入ろうかと思って様子を見ていたが、なんの心配もいらなかったな。私の気配にも気づいたし、お前は優秀だな」
宵月は軽く目を伏せて笑ったが、隠し刀は複雑な心境だった。確かに外では彼女の気配に気づけた。だが、この部屋ではまるで感じ取れなかったのだ。この差異を鑑みれば、宵月の言葉を額面通りに受け取ることは出来ない。
「相手がそんなお前の片割れだとしたら、やはり慎重にならざるを得ない。それに、私はここで雇われている身だ、あまり派手には動けん」
「……あなたにそこまで頼りきるつもりはない。何をすべきか教えてくれれば、自分が」
隠し刀の申し出に、宵月は悩むような素振りで一度口を噤んだ。
閉じられた襖の向こうから、三味線や鼓の音、男と女の喋り声などが聞こえてくる。そういえば、ここは遊郭だったな、と隠し刀は思った。こんなところで、同郷の者とこうして顔を突き合わせることになろうとは。宵月の言う通り、確かに驚くべき偶然である。
それから隠し刀は、宵月はどのようにして片割れを失ったのだろう、と考えた。一人になっても次々と任務与えられるほど、優れた『刀』だったのだろうから、その片割れだって相応の実力者だったろうに。
何があったかなど聞けるはずもなかったが、隠し刀は考えずにはいられなかった。そんな思考を遮るように、宵月が口を開いた。
「ハリスについてはおきちからも話を聞いておくから少し待て。お前の片割れが黒船に捕らわれて以降に何があったかを知りたければ、本町にある横浜貴賓館へ行ってみるといい。そこにマシュー・ペリーがいる。奴と接触出来れば、何か聞き出せることもあるだろう。あとは……」
宵月はそこで一度言葉を区切った。また少し考えるように視線を下げて「いや、とりあえずはこれくらいか」と呟いた。
「他にも何かあるのなら、教えてくれ」
宵月は明らかに何か言いかけて、やめた。しかし、隠し刀が追求しても「今はまだいい」と首を振るだけだった。
「お前が集めてくれた情報を確認する必要がある。何かわかれば知らせるから、そう焦るな」
駄々をこねる子供に言い聞かせるような声だった。隠し刀は急に恥ずかしくなって、思わず視線を畳の上に落とした。
衣擦れの音がして、宵月が腰を上げるのが視界の端に見えた。
「今日はもう休むといい」
そう言って、隠し刀の肩に触れる。何か返事をする間もなく、宵月はそのまま座敷を出て行った。
遠ざかる気配を意識の端で追う。だがすぐに見失って、隠し刀は短く息を吐いた。煙草の残り香が鼻を掠めて、ふと、何故だか「寂しい」と思った。