01 港崎遊郭
男は空を飛んでいた。正しくは滑空であるが、その違いは現在進行形で空を行く男にとっては些末なことだった。
雄大な空の中、翼を広げて泳ぐ鳥。そんな存在になったかのような感覚。そうやって全身に風を浴びながら、男はふと思い返す。
国を抜けて早五年。日ノ本各地を渡り歩き、今度こそと一縷の望みをかけて此処――横浜へやってきたが、さて。
男は北陸の小藩『黒洲』の出である。そこで幼少の頃から特殊な訓練を受けて育った。黒洲藩が幕府に対抗するために作った『隠し刀』と呼ばれる二人一組の兵士である。
様々な武芸や忍術を身に着け、あらゆる身分や職業の人間に成り代わり、粛々と藩命をこなす存在。そんな隠し刀は決まった名を持たない。当然男にも名前はないが、ここでは便宜上『隠し刀』と呼ぶことにする。
男改め隠し刀は、五年前に米国から黒船が来航した折、藩命でその船へと潜入した。米国と幕府の取引に関する密書の奪取と、黒船の船長であるペリーという異人の暗殺が目的だった。
しかし、隠し刀はこれに失敗した。そして、共に任にあたった己が半身ともいうべき片割れを、その時に失ってしまったのだった。
隠し刀となる前から共に育った幼馴染み、我が友、我が半身。隠し刀は彼女のことを諦めはしなかった。あいつは必ず生きている。そう信じて、五年前の冬、幕府隠密の襲撃にあって燃える里に背を向けた。
脱藩は重罪である。まして、幕府に『隠し刀』の存在が露見する原因となった身でもある。黒洲藩は改易されたが、追手はやまなかった。むしろ、より執拗に追われ続けながら、隠し刀はひたすら片割れを探した。ただそれだけを目的に、今日まで生きてきた。
黒船がやってきたあの日から、隠し刀だけではなく、この日ノ本も大きく変わっていった。横浜の町はその最たるもので、四年前の日米和親条約でいくつかの港が開かれてからというもの、条約の応接地であった横浜も急速に発展していった。
その横浜の港に、再び黒船が来航した。そんな話を聞きつけ、隠し刀はここまでやって来たのだった。
しかし、横浜に入るための手形がない。近くの村で手形を手に入れるための情報を聞き、同じく手形を求めていた男――坂本龍馬とひょんな縁で徒党を組み、石川の古びた代官屋敷を根城にしていた賊を退治し、奴らが溜め込んでいた盗品の中からようやく手形を手に入れた。
その中に、奇妙なカラクリがあった。何故それを使ってみようと思ったのか。正気の沙汰ではなかった、と隠し刀自身も認めるところである。
共にあった設計図曰く、これを背負って広げて高所から飛び降りると、風を受けて滑空できるという。
もう一度言う。正気の沙汰ではない。それでも隠し刀は、高台に建つ代官屋敷から、横浜目指して飛んだのである。
とまれ、そうして隠し刀は空から関所を越えたのだった。折角手に入れた手形の出番は、またいつか来るだろう。
久方ぶりの訪れた横浜は、隠し刀の記憶とは様変わりしていた。慣れ親しんだ町並みもあったが、少し場所が変われば西洋風の建物が並び、異人が町を闊歩する。
その光景を横目に、隠し刀は本町にあるという時計台を目指した。代官屋敷で坂本龍馬と別れる時、横浜にある西洋風の大きな時計台で再び会おう、と言葉を交わしたのだった。
情報収集がてら町を見て歩きながら、それらしい赤い石壁の建物に辿り着いた時、
「おーい、こっちじゃあ!」
土佐訛りの明るい声が聞こえて、隠し刀は少しばかり驚いた。空を飛んで来た分、自分の方が早く着くだろうと思っていたのだった。
「おまんも着いちょったか」
それはこちらの科白だ、と思いこそすれ、隠し刀は黙って頷くにとどめた。
「黒船が来て、港が開いて、まっこと賑やかになったもんじゃ」
龍馬はぐるりと首を巡らせた。随分楽しそうに見える。
短銃を所持していたり、異人が履いているような革の履物をしていたり、龍馬はそういう目新しいものが好きなのだろう。
「ところで、おまんはこん横浜に何をしに来たがじゃ?」
不意に問われ、隠し刀はどう返すべきか悩んだ。別に隠すようなことではない。むしろ包み隠さず話しておいた方が、今後情報を得やすくなるかもしれない。
「人を探しに来た」
隠し刀は正直に答えた。片割れについて何の手がかりも掴めぬまま、月日ばかりが過ぎてしまったが、この横浜ではきっと何か見つかる。隠し刀はそう信じている。
「奇遇じゃのう! わしも人を探しに来たんじゃ! けんど、その人は只者じゃないぜよ」
龍馬は意気揚々と話し始めた。
「わしは吉田松陰さんを訪ねて来たんじゃ。おまんも聞いたことはあろう? 百年先の日本を見据える、ど偉い先生じゃ」
長州出身の男で、四年前の和親条約の折に黒船に乗り込んで米国まで密航しようとし、失敗して国許での幽閉処分となった。隠し刀が知る吉田松陰のことなどその程度である。
しかし、長州で幽閉されているはずのその吉田松陰が、この横浜に来ているとは。
「実は、松陰さんはわしの兄弟子での。松陰さんにはこじゃんと門下生がおるき、おまんにも会わせたいと思うちょる。あいつらも、もう横浜に着いちょるはずじゃ。まっこと面白い奴らじゃき――」
饒舌な龍馬は身振り手振りを交えて話し、そのせいですっかり視野が狭くなっていた。
隠し刀があっ、と思って手を伸ばした時にはすでに遅く、龍馬は通りを歩いてきた女とぶつかった。女が持っていた包みから、赤い果物が一つ落ちた。
「おまん、しゃんと前向いて歩かんかえ」
龍馬が足元に転がった果物を拾って言う。それはお前だ、と隠し刀は心の中で返した。
しかし、そこで龍馬の動きが止まった。呆気に取られた様子の龍馬から視線を移した隠し刀は、相手の女を見てなるほど、と思った。
「まあ、拾って下さるなんてお優しい」
艶麗とした女だった。年嵩はいってそうだが、それすら魅力的に思える泣き黒子が似合いの女。彼女はたおやかな仕草で龍馬の手から果実を受け取ると、それに赤い紅を差した唇で口付けた。そうしてそれをまた龍馬に差し出して、
「私は村山たか。港崎遊郭で芸者をしております。貴方のような方に遊びに来ていただけたら嬉しいわ」
と、微笑んだ。
「お、おお! 行くとも行くとも! わしら、ちょうど遊郭に行きたいち話しよったがよ! のう?」
遊郭のゆの字も出ていなかったが。隠し刀はそう言いたかったが、龍馬が必死な顔で同意を求めてくるので致し方なく頷いた。
「まあ、それはそれは。お待ちしておりますわ」
女はそう言い残して去っていき、その背を見送った龍馬が、
「よーし、ほいたらわしについてくるんじゃ! おまんとの再会を祝して、遊郭でパーッとやらんかえ!」
と、浮ついた様子で歩き出す。
「行くならお前一人で行ってくれ。私は」
「ほがなこと言わずついてきい。なあに、遊郭には噂が集まるもんじゃき。面白い話も転がっちょるじゃろ! おまんの探しちょる相手のことも、何か聞けるかもしれんしのう?」
そう言われては、確かに一理あると認めざるを得ない。結局隠し刀は、龍馬に従って遊郭へ向かうことにした。
「それに……おまんもさっきのおなごを見たろう? 横浜には松陰さんを探す前に見るべきものがある!」
結局そちらが本命か。隠し刀はため息をこぼした。
▽
港崎遊郭に着く頃には、もう日が落ちかけていた。道中、龍馬を追ってきた土佐藩士とひと悶着あったせいだった。龍馬も隠し刀と同じ、国を抜けて浪人となった身なのである。
遊郭の中でもひと際大きく豪華な店の前で、斎藤きちと名乗る女に出迎えられた。入り口で刀を預け、二階の座敷に案内される。
きち曰く、村山たかはこの遊郭でも評判の芸者で、こうしてすぐに遊べることなど滅多にないそうだ。
暫くして座敷に現れた村山たかは、町で出会った時より艶めいて見えた。遊郭の空気がそうさせているのかもしれない。
「ところでお二方、港崎にいらっしゃるのは初めてのご様子」
たかが龍馬の盃に酒を汲みながら言った。龍馬は返事もせず、たかの姿に見惚れている。隠し刀が一つ咳払いをすると、龍馬ははっと我に返った様子で緩んだ顔を引き締めた。
「あ……ああ、そうぜよ」
それを受け、たかは「そうでございますか」と微笑んだ。
「ここは遊郭。浮世のことは忘れて楽しんでくださいまし」
それは無理そうだ、と隠し刀は思った。自分はそのために遊郭へ来たわけではない。情報が欲しいのだ。片割れに繋がる何かが、欲しい。しかし、ここで急いてもしかたがないことは、隠し刀も重々承知である。
盃に口を付け、酒を舐める。隠し刀は酒があまり得意ではなかった。里では酒や毒への耐性をつける訓練もしたが、そこそこ程度しか身につかなかった。反対に、片割れはめっぽう酒に強かった。
それから暫くした頃、程よく出来上がった龍馬が「知り合いを見かけたから挨拶してくる」と言って座敷を出て行った。
「楽しい方でございますね」
たかが言った。
「二人でご一緒に横浜までおいでに?」
「……いや、違う」
「おや、そうでしたか。随分仲がよろしいようにお見受けしたものですから」
そうなのか、と隠し刀は思った。
龍馬とはまだ出会って間もない。この男について知っていることなど、名前と、土佐の出であることと、吉田松陰を探していること。それくらいのものである。親しい、と言えるような間柄ではないが、他人の目からそう見えるというのであれば、それはすべて龍馬の人柄によるものだろう。
あんなに人懐こい人間を、隠し刀は初めて見た。図々しいとも思うが、なぜか不快ではない。不思議な男である。
「それで、横浜へは何をしにいらっしゃったのですか?」
尋ねられて、隠し刀はたかと目を合わせた。
それを問う意図は何か。どう答えるべきか。思案する。この女に話しても問題ないだろうか。
「……人を探している。何年か前に黒船に捕らわれて以降、行方が知れない」
隠し刀は正直に打ち明けた。ここまで来て、手ぶらでは帰れない、と思ったのだった。
「さて……」と、たかが目を伏せた。何か考え込むような、勿体ぶるような、そんな仕草だった。
「その方と関わりがあるか存じませんが『黒船に乗ってきた侍』の噂なら聞いたことがございますわ」
心臓が跳ねた。やっと、あいつの情報を引き当てたかもしれない。逸る気を覆い隠して、隠し刀はたかの目を覗き込んだ。
「その噂、聞かせてほしい」
たかは柔らかく微笑んだ。
「お教えしても構いませんが、その前に一つお願いがあります」
こんな初会の客に頼み事? 不信感しかなかったが、とりあえず聞くだけ聞いてみるか。そう思い、隠し刀は「言ってみろ」と先を促した。
たかは綺麗に微笑んだまま、
「そう難しいことではありません。今流行りの写真機で、この遊郭を撮ってほしいのです。なんでも写真機は、ありのままの姿を残す機械とか。そうであるなら、是非この港崎遊郭の賑わいを残したいわ。写真を撮ってくれれば『黒船に乗ってきた侍』のことを教えましょう。その手の噂話に詳しい方も、一緒に紹介して差し上げますわ」
そう話して、改めて「どうでしょう?」としなを作った。
この女の言うことを、どこまで信用していいものか。隠し刀は悩んだ。そもそも何故自分にこんなことを頼むのか、まるで意図がわからない。
しかし、ようやく見つけた糸口を手放す、なんてことは隠し刀には出来なかった。
「……わかった、引き受けよう」