01 拳願号
両開きの扉を押し開けると、船の中とは思えない光景が広がっていた。
吹き抜けのホールを見下ろす巨大なシャンデリア。煌びやかな装飾が施された壁や天井に、フロア一面に敷かれた上質なカーペット。テーブルにかけられた真っ白なクロスも目に痛いほどの光沢を放ち、その上には豪華な食事が並んでいる。
――息が詰まる。伏野ナツメは首元のネクタイに手をやった。目の前の光景に対して、体が拒絶反応を示している。
「どうした?」
男の低い声が頭上から落ちてきた。ナツメははっとして隣を仰ぎ見た。
「まだ慣れないか?」
王森正道が微かに目を細めている。女としては長身の部類に入るナツメだが、王森は更に大きい。ナツメの頭の先が肩に届くか届かないかというほどの、屈強な体つきの大男だ。
「慣れるも何も……。私の性には合わないんです」
ナツメは『中』と呼ばれる場所で育った。東京近郊に存在する広大な無法地帯だ。違法増築を繰り返し、周囲の街をいくつも飲み込んで肥大化した要塞都市。あらゆる暴力が許容され、命が路傍の石より粗雑に扱われる――そういう場所だ。
そんな環境に長年身を置き、その間に骨身にまで染みついた畜生根性はそう簡単には払拭されない。
「今は我慢しろ」
現在身を置いている組織のボスは、ナツメの礼儀作法についてとやかく言いはしなかった。王森も、いつもならばそこまで厳しくない。
「普段は構わんが、こういう場では身嗜みに気を遣え。俺たちの立ち居振る舞いは〝御前〟の品位にも関わってくる」
御前――我らがボス、片原滅堂の名を出されては、ナツメも黙って従うしかない。御前が有する私兵の集団『護衛者』の一員として、主の品格を下げるような真似は許されないのだ。
ナツメはしぶしぶ手を下ろした。
そうやって扉の前に立っているうちに、ホールにいる人々の視線が集まっていた。
仕立ての良いスーツやドレスで身を包んだ彼らは、御前が会長を務める『拳願会』の会員やその関係者だ。この船も、その拳願会が所有する世界最大級の豪華客船――その名も『拳願号』。
たかが船にこの豪華さは必要なのか、甚だ疑問だ。
ナツメはシャンデリアを見上げて目を細めた。
この船が出向した港からは、もう一隻船が出ている。『絶命号』という、その名に相応しいボロ船だが、ナツメとしてはあちらの方がまだ馴染めるというものだった。
向こうはそろそろ〝予選〟が始まっている頃だろうか。
そんなことを考えながら、ホールに足を踏み入れる。途端、ガラスの割れる音が響いた。男の怒鳴り声が聞こえ、グラスを片手に談笑していた人々の声が途切れた。
「早速揉め事か」
王森が呆れたように呟いた。その時には、ナツメはすでに動いていた。
「処理してきます」
「やり過ぎないようにな」
王森の声を背に、正装の群衆を擦り抜ける。喧騒が途切れたのは一瞬で、皆すでに会話を再開させている。
いくつも混ざりあった香水の匂いが鼻をつく。グラスやアクセサリーに反射するシャンデリアの光も鬱陶しい。こんな息苦しい空間で何時間も突っ立って警備につくくらいなら、揉め事の方が何倍もマシだった。
ふと、左目に眼帯をつけた男が視界の端に映った。ナツメと同じ、黒いスーツに黒いネクタイ。護衛者の制服だ。目が合うと、男は少し困ったような顔で笑って足を止めた。ナツメの心情を察してくれたらしい。
現場では、がらの悪そうな男が二人、今にも掴み合いになりそうな剣幕で睨み合っていた。この煌びやかな空間には相応しくない、粗暴な出で立ちだ。おそらく、どこかの企業が荒事用に雇った連中だろう。
周囲の人間はすでに男たちから距離を置いている。しかし、遠巻きにしているだけで逃げる様子はない。寧ろ、酒の肴だとでも言わんばかりの笑みで眺めている。
ナツメは〝観客〟の多さに内心ため息をこぼした。目立つことは好きではない。だが、折角の息抜きを逃すのも惜しい。
「お客様、どうか落ち着いて下さい」
ナツメは男たちの間に割って入った。
「うるせえ!」
「すっこんでろ!」
男たちは噛みつくような剣幕でナツメを睨んだ。しかし、こちらをしかと見た途端、目の色を変えた。
「ああ? 女ぁ?」
短い髪に剃り込みをいれた男が言う。
「その服……『護衛者』か?」
シャツの肩口から派手なタトゥーを覗かせた男が言う。
「護衛者ぁ? 女の護衛者っていやあ……」
剃り込みの男が呟くようにこぼし、それから口角を吊り上げて笑った。
「ああ、『滅堂の猫』ってやつか?」
酒臭い息がかかり、ナツメは呼吸を止めた。不快感が頭をもたげる。
護衛者は基本全員が男だ。その唯一の例外がナツメである。好奇の目に晒されることも、下卑た噂が立つことも、いちいち気にしていてはきりがない。
しかし、それが御前をも侮辱する言葉なら、話は別だ。『護衛者』として守るべきは、王森にも言われた通り、御前の身だけではないのだ。
ナツメは男たちの目を交互に見た。どちらも随分酔っている。高級な酒が無償で提供されていると知り、度を越して飲んだのだろう。揉めた理由もどうせ些細なことに違いない。こんな連中を雇った企業も高が知れるというものだ。
「他のお客様のご迷惑になりますので、どうかお控えください」
ナツメは努めて冷静に言葉を続けた。
「控えてやってもいいが」
タトゥーの男が唇を舐めた。粘着質な視線が体を這う。
「このままじゃ気が収まらないんでね。あんたが付き合ってくれるってんなら考えるぜ?」
「ああ、それなら俺もこいつと仲良く出来そうだ」
ナツメは男たちを黙って見つめた。こちらから手を出せないことがもどかしい。
その時ふと、首筋に刺さるような視線を感じた。複数だ。正体を確認したかったが、その前にタトゥー男の手が伸びてきた。
肩に触られる直前、ナツメはその腕に軽く手を添えた。ほんの少しだけ力を加える。男の膝がかくん、と折れた。
「お?」
男が呆けた声をもらした。何が起きたのか、この男に理解できるわけがない。
このまま首を折ってしまおうか。跪いた男を見て、そんな思考がよぎった。昔の自分ならそうしていただろう。だが、今は『護衛者』としてここにいる。許しがたい侮辱を受けたのだとしても〝殺し〟はやり過ぎだ。
「大丈夫ですか? 少々飲み過ぎたのでは?」
ナツメは男に声をかけた。腰を屈めるふりで、男の首筋に手刀を落とす。タトゥー男は声も出さずに床へ突っ伏した。
「お、おい、どうした?」
剃り込みの男が困惑した様子で、気を失った男とナツメを交互に見た。
「眠ってしまわれたようです。きっと飲み過ぎたんでしょう」
ナツメは立ち上がって答えた。
「今の今まで喋ってたんだぞ! そんな急に寝ちまうわけねえだろ! てめえ一体何を」
男が掴みかかってきた。ナツメは胸倉に伸びてきた手を左手でいなした。一歩踏み込み、右の肘を顎に叩き込む。男の頭が揺れた。瞳がぐるりと上を向く。ナツメが体を半身に開くと、男の体が目の前を崩れ落ちていった。
「担架を」
顔を上げ、少し離れたところで待機していた眼帯の男――吉岡に声をかける。すると、すでに手配済みだ、というジェスチャーが返ってきた。
「なあ、さっき『滅堂の猫』って」
どこからか囁く声が聞こえてくる。
「あれが噂の……」
「片原会長のお気に入りだっていう護衛者か」
「あの爺さん、もう百歳近かったよな? 女好きは一生治らねえんだな」
ナツメは群衆に視線を向けた。目が合いそうになると、誰もが慌てて顔をそらす。そのくせ、またすぐ小声でひそひそと話し出す。品のなさはこの酔っ払い共と大差ないように思えた。
「気にすることはありませんよ」
傍に寄ってきた吉岡が、気遣わしげな顔で耳打ちした。
「私は気にしてない。けど、お前に任せれば良かったよ」
答え、ナツメはもう一度周囲を見回した。先ほど感じた気配がまだ、首筋に刺さっている。
「……『闘技者』か」
「ええ。それも、トーナメントの本選出場が決まっている方々でしょう」
「だろうな、ここにいるんだから」
ビジネスにおける企業の対立を、格闘仕合で解決する『闘技者』たち。死人が出ることもままある世界で、己の強さを誇示する者たちの、観察の目。
殺気や敵意は感じないにしても、あまり気持ちのいいものでもない。
不意に人垣が割れ、担架が二台運ばれてきた。そうして開けた視界の先で、一人の男と目が合った。褐色の肌に、バーテンダーを思わせるシャツと蝶ネクタイ姿。
「……氷室涼様ですね。義伊國屋書店の代表闘技者です」
吉岡が小声で告げる。その間も、ナツメは氷室から目を離さなかった。正確には、離せなかった。記憶には存在しない男であるが、あれが何者なのかはわかる。
「あいつ……」
「どうしました?」
「『中』の人間だ」
吉岡がほんの一瞬息を詰めた。横目を向ければ、隻眼の右目に鋭い光が宿っている。
「確かですか?」
「ああ。同郷の人間はなんとなくわかるんだ」
暴力に慣れ親しんだ『中』の出身者が、裏格闘技の世界に身を置く。なるほど、道理だ。
ナツメは踵を返した。
「戻るぞ」
「よろしいんですか?」
「ここで面倒を起こすわけにもいかないだろ」
「おや、気分転換がしたかったのでは?」
切れ長の目が、笑みを浮かべてより細くなっている。吉岡は物腰柔らかい男だが、時折意地悪だ。
「今ので懲りた」
それだけ言い残し、吉岡から離れた。数える気にもならないほどの視線を引き連れたまま、ナツメは王森のもとまで戻った。
「息抜きはできたか?」
目が合った瞬間言われ、ナツメは気恥ずかしくなった。吉岡が相手なら聞き流せることでも、王森が相手になった途端うまく平静を保てない。
「……すみません」
「謝るようなことはしてないだろう?」
口髭を生やした強面に相応しい低く響く声だが、その声音は優しい。
「お前は『護衛者』としてすべきことをしただけだ。対処の仕方も問題ない。良くやった」
ナツメはむず痒くなって視線をそらした。
「……ありがとうございます」
頭を下げ、王森の横に並ぶ。顔を上げてホールに目を向け直せば、再びシャンデリアの光が網膜に刺さった。
どこを見ても煌びやかな物しか目に入らない。ゴミと廃墟と血の色ばかりの『中』を思えば、この光景はまさしく別世界だ。一生関わることのなかった世界。金持ち共の道楽。妬みはないが、理解はし難い。
「歪んでるぞ」
王森の声にナツメははっとした。無意識のうちにネクタイを弄っていたようだ。
「……王森さん」
「まったく、しようのない奴だな。貸してみろ」
ナツメは体ごと王森の方を向いた。王森の大きく武骨な手が、ナツメのネクタイを締め直す。
「ネクタイの締め方は前にも教えたはずだが」
「すみません、どうにも慣れなくて」
「慣れる気もなさそうに見えるがな。……できたぞ」
「ありがとうございます」
ナツメが姿勢を正すと、王森は一つ頷いたあと、ホールに視線を戻した。
「だがまあ、俺もあまりこういう場は得意ではない。堅苦しくてな」
「……そうは見えませんが」
「俺はもう長いからな。流石に慣れた」
そういえば、この人も御前からスカウトされて『護衛者』になったのだったか。そんなことを思い出しながら、ナツメもホールに顔を向けた。
「お前も、性には合わなくともいずれ慣れる」
「そういうものですか?」
隣に立つ王森を横目に見る。王森も同じようにちらりとだけナツメを見ると「そういうものだ」と答えた。
▽
時刻は日を跨いだ。それでもパーティーが終わる気配はなく、ホールは相変わらず人で溢れている。
共にいた王森は、ひと足先に御前のもとへ戻ってしまった。ナツメもあと少しで交代の時間になる。その後は王森同様、御前のもとへ戻る手筈になっている。
この息苦しさもそれまでの辛抱――のはずだった。
「こんばんは、お姉さん」
聞こえた男の声に、ナツメは目を細めた。先ほど見かけた、氷室涼とかいう男だった。
「少しだけ話をさせてくれないかい」
氷室は涼しげな目元に愛想の良い笑みを浮かべた。
「申し訳ございません、仕事中ですので」
ナツメはにべもなく返した。自分と同じ『中』出身の人間。嫌な気配はしないが、油断はできない。
氷室は「本当に少しだけさ」と更に距離を縮めた。
視界の端に、また吉岡の姿が見えた。氷室の動きを警戒する鋭い隻眼と目を合わせる。問題ない。目配せで告げたあと、改めて氷室を見た。
「仕事中ですので」
先程より低く、警告を兼ねた声色で発する。ぴたりと氷室の足が止まった。それからじっとナツメを見つめ、何かに納得したかのように頷いた。
「やっぱりそうだ。『一龍』区の伏野ナツメさんでしょ」
一龍――『中』にある、ナツメが生まれ育った場所。あの場所を出てまだ三年しか経っていないが、随分と懐かしく感じる。現在進行形で感じている居心地の悪さが原因かもしれない。
「……お前は?」
吉岡が目を丸くしてこちらを見た。氷室に応じるとは思っていなかったのだろう。ナツメもそんなつもりはなかった。気づいたら言葉が出ていて、自分でも驚いている。
「俺は氷室涼。『狼弎』出身なんだ」
一龍に隣接する『中』の三番街だ。他と比べて比較的治安が安定している地域で、ナツメも度々足を運んでいた。
しかし、改めて氷室の顔を確認しても、やはり記憶には存在しない。
「何の用だ?」
氷室に問いながらも、ナツメは周囲に視線を走らせた。また注目が集まり始めている。
「いや、用ってほどでもないんだけど。まさかこんなところで会えるとは思ってなかったもんだから。さっきのも見てたけど、ちょっとイメージと違ったっていうか。『中』じゃナツメさんってもっと――」
「……なるほどな」
氷室がなぜ接触してきたのか、ナツメは理解した。それと同時に、喉の奥から嘲笑がこぼれた。
暴力ですべてを奪い合うあの場所で、弱者に待つのは死か、それ以上の堪えがたい苦痛や屈辱だ。ナツメはそれらを〝与える側〟にいた。
「殺して見せれば良かったか?」
氷室の顔がわずかに歪んだ。視線は逸れない。その目の中に恐れや嫌悪は見えなかったが、哀れむような色があった。ナツメの予想とは違う反応だ。
「悪い、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。俺はただ――」
「用がないなら消えてくれ。何度も言うが、見ての通り仕事中だ」
ナツメは冷淡に撥ねつけた。これ以上氷室と話していると、『護衛者』としての体面を保てなくなりそうだった。
ナツメは吉岡を見た。彼は一つ瞬くと、すぐさま行動に出た。
「お話し中失礼いたします」
すっと寄ってきた吉岡が、恭しく頭を下げた。
「氷室様、大変申し訳ございません。我々はそろそろ次の配置に向かわなければいけませんので」
「ああ、いや……。こっちこそ。ナツメさん、忙しいとこに悪かったね」
氷室はころりと表情を変えた。気さくな笑顔をナツメに向ける。
「出来れば、また今度時間をもらえないかい?」
氷室と改めて目を合わせたナツメは、そのまま黙って踵を返した。
「失礼いたします」
吉岡の完璧な所作に、ナツメは内心歯噛みした。『護衛者』として振る舞えていない己の無様が情けなかった。
ナツメと吉岡は揃ってホールを出た。纏わりつく周囲の視線を、扉を閉めて遮断する。思わずため息がこぼれた。
「お疲れさまでした」
吉岡が労りの言葉を投げて寄越す。顔を見ずとも笑っているのがわかった。
「……お前がいてくれて助かった」
「あなたが突っ撥ねもせずに応対するものですから、驚きました。皆も気が気でないようでしたよ」
そこまで信用されていないのか。ナツメは通路の先を睨んだ。
「別に暴れたりなんかしない」
「ナツメ、皆が心配してたのはそういうことではありません」
吉岡は眉を下げて笑った。
「氷室様は最近注目の闘技者です。その上、あの容姿ですから。女性からの人気も高いようでして」
「……そういうことか」
ナツメは納得した。だが、どちらにしてもありえないことだった。
「『中』の人間だから少し様子を見ただけだ」
「ええ、わかっています。ですが、あなたの対応を見て、氷室様に注目なさる方はさらに増えたでしょうね。勿論、あなたにも」
反論の余地もなく、ナツメは肩を竦めるにとどめた。
「氷室の戦績はどうなんだ?」
「確か、四戦四勝だったはずです。もうすでに強豪闘技者と並び称されるほどで」
「強豪って、どのレベルだ?」
「そうですね……。我々隊長クラス、でしょうか」
ナツメは吉岡を横目に見た。漢数字で「二」と記された腕章が、彼の左腕で揺れている。護衛者二番隊隊長。それが吉岡の肩書だ。
「そうか。それだけの闘技者なら、御前もご存知かな」
「ええ、おそらく。このトーナメントでも注目株になるでしょう」
だとしても、優勝候補に挙がるほどではあるまい。ナツメは『闘技者』最高峰の実力を、この身をもって知っている。氷室はそれには遠く及ばない
不意に、耳に装着していた無線にザッとノイズが走った。
『護衛者全員に通達』
イヤホンから聞こえた声に、ナツメと吉岡は一瞬だけ目を合わせた。
『絶命号で行われていた予選が終了した。これより、予選を勝ち抜いた企業関係者の移動を開始する。御前が直々に出迎えられるため、直属の護衛はこれに随従せよ。それ以外は各自所定の通りに――』
「……思ったより早かったな」
ナツメはぼやくようにこぼした。
「気乗りしませんか?」
「ああ、まあ……。あいつが予選で落ちるとは思えないからな」
「……十鬼蛇様、でしたか。彼も『中』出身なんですよね?」
「ああ」
もしかしたら、他にも『中』出身の闘技者がこの船にいるかもしれない。己の過去を知る人間。考えるだけで、腹の底がざわめくようだ。
「……あなたと彼の間で何があったのかは知りませんが」
吉岡はそこで一度言葉を区切った。それからナツメの目を真っ直ぐに見て、言った。
「今のあなたは『護衛者』です。我々がいます。それを忘れないでください」
「――わかってる」
ナツメも真っ直ぐに吉岡の目を見返した。