獣は泣いたか 第1章02

02 護衛者

 ナツメは船室の窓から暗い甲板を見つめた。
 船は一時的に停泊され、巨大な拳願号の影にみすぼらしい貨物船が横付けされた。
 暗い夜の海にそのまま沈んでしまいそうなほどに朽ちた絶命号。『中』の退廃的な建造物を思い起こさせる姿だ。
 ――あの船に、あいつが乗っているのか。スラックスのポケットに突っ込んだ手がわずかに強張った。

「表情が硬いのう」

 嗄れた声が聞こえて、ナツメは慌てて姿勢を正した。少し視線を落とせば、こちらを見上げる小柄な老爺と目が合った。

「御前」
「良い、良い」

 ナツメは最敬礼で応じようとしたが、軽く手をあげた御前に制された。突いた杖で床を鳴らしながら、御前がナツメの隣に立つ。

「到着したようじゃの」

 窓を覗き込んだ御前につられて、ナツメも再び甲板に目を向けた。

「うーむ、ここからでは儂には見えん」
「……今、絶命号とタラップを繋いでいるところです」
「おお、そうか。流石に目が良いのう」

 御前は声を立てて笑った。齢九十を超えた体は、年相応に枯れて細く、小さい。笑い声に合わせて揺れる体を見ていると不安になるほどに。

「して、探し物は見えたか?」

 だが、実際の御前は活力にあふれている。背筋は真っ直ぐに伸ばされ、その目には『拳願会』の会長として、組織に所属する数百もの企業を束ねる権力者の凄みがある。
 ナツメは、御前のその目が苦手だ。

「……いいえ」
「ならば、直接見に行くとするかの」

 御前が窓から離れた。その姿を追って室内に顔を向けると、壁のように立ち並んだ黒服の集団が視界を埋めた。その最前列に王森が立っている。目が合うと、王森はわずかに頷いた。
 ナツメは視線を隣に移した。王森にも引けを取らない体格をした男が、鋭い目でナツメを見つめていた。
 口腔マスクで顔の下半分を覆っているが、表情の険しさは一目瞭然だ。鷹山たかやまミノル。王森と並び立つ実力者だが、王森以上に『護衛者』としての在り方に厳しい。ナツメは、この男のことも少し苦手だ。

「予選を勝ち抜いた企業の情報だ、目を通しておけ」

 鷹山が紙の束を差し出した。
 一番上の紙には『ベルシイ石油』という文字と、浅黒い肌をした男の顔写真が見える。企業の名前も、おそらく闘技者だろう男の顔にも覚えはなかった。
 ナツメは両手で書類を受け取った。あいつは何枚目にいるだろうか。

「ここで待っておっても構わんぞ?」

 不意に御前が振り返った。何もかもを見透かす目をしている。

「――行きます。私はあなたの護衛です」

 手の中で、紙の束が乾いた音を立てた。

 甲板に出ると、生温い海風が肌を撫でた。絶命号の客人たちはまだ到着していない。
 護衛者の一人が用意した椅子に、御前が腰を下ろした。その両隣に王森と鷹山が並び立ち、他の面々が背後に整然と控える。ナツメも王森の背後に立ち、一つ深く息を吸った。
 潮の匂いが鼻腔を抜ける。その中に、錆びた鉄と重油の臭気が混ざって、肺の底へと落ちてきた。
 あのパーティー会場に充満していた酒と香水の臭いより、何倍もいい。『中』の腐った空気を思い出す。
 やはりナツメには、こちらの方が性にあっている。どれほど陰惨な場所だとしても、ナツメにとって『中』は紛れもなく故郷だった。
 氷室にとっても、もうすぐにここに現れるはずのあいつにとっても。
 ナツメは開いた右手に視線を落とした。指を曲げ、もう一度開き、また握る。真夏の湿った夜だというのに、指先が白く冷えていた。

「緊張してるのか?」

 右から声が聞こえた。スキンヘッドの男がナツメの手を覗いている。

「別に」

 ナツメは背筋を伸ばし、両手を背に回した。

「俺も例の仕合の映像は見たが、あの十鬼蛇って闘技者……。お前がそんな身構えるほどの相手には見えなかったぞ」

 その言い分は理解できる。『ガンダイ株式会社』と『乃木のぎグループ』の間で行われたその一戦は、ナツメも何度も確認した。その上で、乃木グループ側の闘技者――十鬼蛇王馬おうまの実力に対する評価は同様だ。

「まあ、あの関林せきばやしがほぼ無名の闘技者に負けたのは確かに驚きだったが」

 ガンダイの関林ジュンは、五十七戦無敗を誇る闘技者だった。現役のプロレスラーで、御前のお気に入りでもあるから、ナツメもその強さは知っていた。
 しかし、あの仕合映像を見た時の驚きは、関林の敗北とは関係ない。これはきっと、他の誰とも共有できない感情なのだ。
 ナツメは細く息を吐いた。気が重い。まるで肺の中に石でも沈んでいるようだった。

「あれは関林の油断が――」
淀江よどえ、私語は慎め」

 鷹山が淀江の言葉を遮った。肩口に振り向いた顔は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。
 淀江はまずい、といった顔で口を噤んだ。

「そう怒るでない」

 御前が笑い交じりに言った。細い肩が揺れている。しかし、次の瞬間にはその声色が変わった。

「ナツメや、本当に大丈夫なんじゃな?」

 ナツメは背中で組んだ手を強く握った。

「御前や皆の迷惑になるようなことは決して――」
「儂らではなく、おぬし自身のことを聞いておる」

 御前が振り向いた。またあの目だ。どう答えるのが正解なのか。ナツメは言葉を詰まらせた。

「……十鬼蛇王馬くん、じゃったか。おぬしと同じ『中』の出身じゃと聞いたが、もう一つ教えてくれんか? ――あれは、おぬしの敵か?」

 空気が一瞬で張り詰めた。御前だけではない、皆の視線が体中に突き刺さった。

「――違います。敵ではありません。少なくとも、私にとっては」
「では、向こうにとっては?」
「……後ろから刺されても驚きません」

 また一段、空気が冷えた。護衛者たちがにわかに殺気立つ。まずい、言葉を間違えた。誰かが何か口を開く前に、ナツメは畳みかけるように続けた。

「あくまで例えです。私と違ってそういうことをする奴じゃありません。私が、それくらいのことをしたってだけで、あいつは何も……。だから、もしあいつが私に掴みかかってきたとしても、原因は私にあるから敵じゃな――、敵ではありません、し、何が起きても自分で対処できます」

 うまく言葉が出てこず、最後はほとんど絞り出すように喋った。握った手のひらにじんわりと汗が滲む。

「……ふむ、何やら複雑な事情があるようじゃな。良い、良い。おぬしが問題ないというのなら」

 御前が前を向いた。椅子に座り直し、杖を突いて鳴らす。その音と同時に周囲の空気が弛緩した。

「まあ、あれじゃな。男女の縺れに首を突っ込むのも野暮というもの」
「ちが、そういうんじゃ――」
「なんだ、お前も隅に置けねえなあ」
「あーあ、これ知ったら何人泣くかね」
「後ろから刺されないよう気をつけろよ」

 否定の言葉は次々に上がる冷やかしに飲み込まれた。御前は声を立てて笑っている。王森の横顔も笑っているように見えた。
 その中で、鷹山だけが相変わらず厳しい目をしていた。その視線が背後の護衛者たちを横なぎにすると、水を打ったように静かになった。
 鋭い目が、最後にナツメのもとで止まる。ナツメは鷹山と目を合わせ、目礼で謝意を示した。
 それから暫くは誰も言葉を発することなく、吹き付ける風と低く唸る船のエンジン音だけが甲板を包んだ。
 ナツメの手のひらが完全に乾いた頃、複数の気配が近づいてきた。混ざり合う足音と話し声。

「来たか」

 御前が呟いた。周囲の空気が再び引き締まる。御前の威厳を体現する存在として、ナツメもまた『護衛者』の顔を作って前を見た。
 絶命号での予選を勝ち抜いた〝勝者〟たちが、階段を上って現れた。
 企業の社長や秘書などの関係者と代表闘技者を合わせて二十名弱。その人影の中で、ナツメの視線は一人の男に吸い寄せられた。
 ――間違いない、王馬だ。
 自分よりずっと早く――十年も前に『中』を出て行った相手。それ以来、一度も顔を合わせることのなかった男が、すぐそこにいる。
 記憶にある少年とは違う、鍛え上げられた逞しい姿を目にして、言い知れぬ感情が込み上げてきた。何度も映像で確認したはずなのに。
 心臓の軋む音がした。ナツメは短く息を吐き、一歩後ろへ下がった。
 淀江がちらりと視線を寄越した。王森や鷹山には劣るが、淀江も二メートル近い体格の持ち主である。その大きな体が半歩、横に動いた。

「諸君、まずは予選突破おめでとう」

 御前が口を開いた。

「いや……。或いは、予選で散った方がめでたかったかもしれんのう」

 御前の笑い声を聞きながら、ナツメは狭い視界の隙間を覗き込んだ。
 予選を勝ち抜いた闘技者は五人。この中で、ナツメが王馬以外で知っている闘技者は一人だけ。それもまた、王馬の拳願仕合のデビュー戦の相手だったから、という理由である。
 理人りひとという闘技者だった。当時は『義武よしたけ不動産』の所属だったが、王馬に負けたあと雇用を切られたらしい。このトーナメントには自ら起業して『SH冷凍』の社長兼闘技者として参戦した、と資料にあった。
 王馬のすぐ背後にその姿がある。一九〇センチほどだろうか。王馬より一回り大きな体格をしている。

「――本選は、君たち五人を含めた三十三人で争うことになる」

 ナツメの目には、この五人の中に優勝候補はいないように思えた。予選で散った方がめでたかった、という御前の言葉には同意しかない。本選の闘技者は化け物揃いだ。護衛者の頂点――『滅堂の牙』を筆頭に。

「これほど早く予選が終わるとは思っておらんかったでの。本来は明朝ミーティングを行うはずじゃったが……。詳細は予定を早めて、午前二時より中央大ホールにて発表させてもらう。他の二十八名の闘技者と共にな」

 ナツメは腕の時計に目を落とした。現在の時刻は午前一時二十分。四十分猶予がある。予選が早く終わったせいで休憩に入れていない。できればこの間に軽く何か食べておきたいところだ。

「さて、歓迎セレモニーはこれにてお開きとしよう。まずは諸君を部屋まで案内――」

 御前が言いかけて止まり、ナツメも同時に顔を上げた。不穏な気配を感じ取ったのだ。

「何か御用かな、ハサドくん」

 御前が静かな声で問う。ナツメは先ほど見た資料を思い出した。最初にページにあった『ベルシイ石油』という企業。その代表闘技者の名がハサドだった。
 写真と同じ褐色の肌の男が、険しい顔つきで前へ出てきた。

「片原会長、一点お答えいただきたい」

 その声も、不満や怒りが滲む低い声色をしていた。

「ふむ……。もしや、予選のことかの?」
「左様。なぜ我らが予選を課せられ、他の二十八名は免除されたのか。納得のいく理由をお聞かせ願いたい。私を含め、ここにいる五名は予選では明らかに抜きん出た実力を発揮して――」
「自惚れるな、ハナタレが」

 御前の鋭い声がハサドの言葉を遮った。

「選ばれたのは二十八名の『闘技者』ではない。拳願仕合で優れた実績を残しておる上位二十八社じゃ。拳願仕合の本質、知らぬわけではあるまい? 商人を差し置いて『道具』が主張するなど笑止千万! 貴様ら闘技者は『駒』ということを自覚せい!」

 枯木のように老いた姿からは想像もできないほど大喝。背後にいても空気の震えが伝わってきて、ナツメは驚いた。御前のこんな声を聞いたのは初めてだった。

「……ならば教えてやろう。駒の強大さを」

 ハサドが動いた。同時にナツメも御前の背に身を寄せ、影のようにぴたりと張りついた。他の護衛者たちが壁を作り、ハサドを牽制する。

「私が排除します」

 ナツメは御前に申し出た。視線はハサドから決して外さない。御前に仇なすというのであれば、手加減はいらないだろう。

「いや……」

 御前が何か言いかけた時、一つの影がすっと前へ歩み出た。淀江だ。淀江は片腕を広げ、ハサドの行く手を阻んだ。

「わきまえろ、下郎」
「退け、雑魚に用はない」

 一触即発。二人は睨み合い、一瞬の静寂が甲板を包んだ。
 次の瞬間、ハサドが大きく踏み込んだ。瞬きも許さないほど速く、鋭い突きが放たれる。しかし、淀江には届かなかった。同じように一歩踏み込んで突きを避けた淀江は、体重を乗せた右拳をハサドの顔面に叩き込んだ。
 綺麗に入ったカウンターに、ハサドの体がぐらつく。そのまま膝から崩れ落ちるかと思ったが、そこは闘技者の意地だろうか。ハサドは再び拳を握り、

「き、貴様ッ!!」

 そう吠えた。だが、やはり淀江の方が早かった。放たれた回し蹴りがハサドの顎を捉え、その衝撃で体が宙を舞った。
 歯が折れたか、鼻が折れたか。ハサドは真っ赤な血を撒き散らしながら、そのまま甲板の手摺りを超えて海へと落ちていった。
 ハサドの雇用主と思わしき男が、慌てて手摺りに駆け寄っていった。夜の海で、その姿を見つけることは難しいだろう。

「ご苦労、淀江」

 御前が労いの言葉を投げ、淀江が戻ってくる。余裕の笑みを浮かべた淀江は、ナツメと目が合うと、

「お前に任せるとやり過ぎるからな」

 と言った。

「……ああいう手合いは徹底的にやるべきだ。でないとまた歯向かってくる」
「その時はまた教えてやればいい」
「何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「そうならんよう俺たちがいる。お前もな」

 淀江がナツメを指差した。

「直前まで隠れてたくせに、いざとなりゃ真っ先に動けるし躊躇いもない。そんなお前がいて、誰が御前に近づける?」

 ナツメは唇を結んだ。飲み込んだ言葉が喉の奥で奇妙な音を立てた。
 ハサドが御前に敵意を向けた瞬間、王馬のことなど頭から完全に消え失せていた。『護衛者』としては正しい。だがそれは、ナツメにとって王馬はその程度の存在だということでもあった。
 ――思い返せば、この十年の間で王馬のことを思い出した回数など数えるほどしかない気がする。

「どうした?」
「……いや、そうだな。お前の言う通りだ」

 私は『護衛者』だ。それでいい。――いいはずだ。
 なぜか、心臓の音がうるさかった。

「諸君、お騒がせしたの。少々遅くなったが、客室に案内しよう」

 残った四社の関係者に向けて、御前が改めて話す。その声に耳をそばだて、頭の中で響く鼓動を意識の外にした。

「そうそう。先ほど言い忘れたが、予選を免除された闘技者二十八名は、拳願仕合で上位の実績を残した二十八社の代表じゃが、具体的には『拳願会企業序列』上位二十八社の面々じゃ。そんな目利きの中の目利きが最強と見込んだ最精鋭――。少なくとも『護衛者』に不覚を取るような出場者は一人もおらんと思っておきなさい」

 暗に、淀江に一蹴される程度では優勝など夢のまた夢、だと言っているのだ。
 ふと、ひと際驚いた様子で慌てふためいている男が目についた。眼鏡をかけた冴えない印象の中年の男だ。普段なら気にも留めないような存在だが、その傍に王馬が立っている。
 あれが王馬の雇用主である『山下やました商事』の社長だろうか。
 男の隣には、スーツを着た小柄な女が立っている。社長秘書だろう。女の方もナツメの存在に気づいたようで、ほんの一瞬だけ目配せをした。この人数の大男に紛れたナツメに気づく、その目の早さは流石だ。
 すぐに外方を向いた女と同じように、ナツメも視線を外した。彼女の諜報能力は御前のお墨付きだ。タイミングがあればいろいろ聞いてみてもいいだろう。
 話し終えた御前が椅子から立ち上がった。勝ち抜き組と、彼らを部屋まで案内する護衛者たちを残し、船内へと撤収する。

「抜けても構わんぞ?」

 その途中、御前がナツメを見て言った。その言葉の意図をすぐに理解できた。

「いいえ、必要ありません。私は今、護衛者としてここにいますので」
「ふむ、いらん気遣いじゃったか」

 御前は続けて「気が変わったらいつでも言いんしゃい」と片手をひらひらと振った。

「お心遣い、感謝いたします」

 恭しく頭を下げた、その時だ。

「ナツメ!」

 名を呼ぶ男の声が耳朶を打って、ナツメは立ち止まった。己の意思とは関係なく、体が勝手に振り返る。なんてことだ。その声に応じてはいけなかったのに。