01 拳願号
豪奢なシャンデリアが吹き抜けのホールを見下ろしている。天井や壁には煌びやかな装飾が施され、足元には上質かつ洗練された美しいカーペット。フロア中のテーブルにかけられた真っ白なクロスも最高級の光沢を放ち、その上には豪華な食事が並んでいる。
グラスを片手に談笑する人々も、誰も彼もが仕立ての良いスーツやドレスを身に纏い、まるで競うかのように自らを誇示している。
そんな豪勢なパーティが開催されているのは、クルーズ客船『拳願号』の船内。全長三百八十メートル、総重量二十五万トンを誇る世界最大級の豪華客船だ。
船は現在、とある孤島に向けて二泊三日の道程を航行中である。その船内の警備を任されている伏野ナツメは、目の前に広がる豪華絢爛な光景に息が詰まる思いだった。
かくいう自身が着ているスーツもオーダーメイドの一着であり、ネクタイも靴もこの場に釣り合う高級品である。しかし、現在所属している組織の指定の服だから、以外にこれを着用している理由はない。そのせいか、どうにも服に着られている気がしてならなかった。
「落ち着かないようだな」
頭の上から降ってきた声に、ナツメは隣に立つ男を見た。
女としては長身の部類に入るナツメだが、その男は更に大きく、ナツメの頭の先が男の肩に届くか届かないか。おそらく二メートルを超えているだろう。強面に口髭を生やした齢四十半ばの大男は、ナツメと揃いの黒いスーツでその身を覆っているが、鍛え上げられた屈強な肉体は隠し切れるものではなく、どっしりとした威厳や貫禄がひしひしと伝わってきた。
「まだ慣れないか」と、男が少し目を細めた。「こういう場は初めてでもないだろう」
どこか笑みを含んだ視線を受け、ナツメは煌びやかなホールに顔を向け直した。
「慣れる慣れないではなく、根本的に私の性には合わないのだと」
ナツメは劣悪な環境で育った。政府ですら手に負えないとして事実上放棄された、法も秩序も存在しない不法集落である。東京近郊に位置し、練馬区と同等の土地面積に違法増築を繰り返してできあがった巨大要塞都市。三年ほど前まで、ナツメはそんな無法地帯にいた。
暴力ですべてを奪い合うその場所で、弱者に待つのは死か、それ以上の堪えがたい苦痛や屈辱であるが、ナツメにはそのどちらも味わうことなく生き抜けるだけの強さがあった。
それゆえにこの組織に身を置くことを許されたわけであるが、殺すか殺されるかという環境に長年身を置いていた事実が消えるわけでもなく、その間に骨身にまで染みついた畜生根性は三年そこらで払拭されるものではない。
そんな当時から考えれば、目の前の光景はまさに別世界だった。一生関わることのなかった世界。金持ち共の道楽。妬みはないが、理解はし難い。
組織の総帥たる人物の護衛がナツメの任務である。それを請け負ってから度々こういった豪勢なパーティーに同行することもあったが、その度にナツメは場違いだと思っていた。今回も例に漏れず。
「歪んでるぞ」
男の声にナツメははっとした。無意識のうちにネクタイを弄っていたようだ。ナツメは申し訳なさを表すように眉を寄せて、隣に立つ男を見上げた。
「王森さん、これ外しちゃ駄目ですか?」
男――王森正道はやれやれと息を吐いた。
「今は駄目だ」
「……ですよね」
「まったく、しようのない奴だな。貸してみろ」
ナツメは体ごと王森の方を向いた。王森の大きく武骨な手が、ナツメのネクタイを締め直す。面倒見のいい人だ。ナツメにこの組織や仕事についてあれこれ指導してくれたのも王森だった。
無論、それは彼らが〝御前〟と呼ぶ組織の総帥からの命であったわけだが、その御前が有する私兵の集団『護衛者』の中でも最高戦力の一人に当たる男を、礼儀も躾もなっていない無法者の教育係に任命すること自体が酔狂というものだった。
「普段は構わんが、こういう場では身嗜みに気を遣え。俺たちの立ち振る舞いは、御前の品位にも関わってくる」
「……気をつけます」
「それでいい。――できたぞ」
「すみません、ありがとうございます」
そうして再び姿勢を正し、ホールへと視線を戻してすぐ、王森は「だがまあ」とこぼすように口を開いた。
「俺もあまりこういう場は得意ではない。堅苦しくてな」
「……そうは見えませんが」
「俺はもう長いからな。流石に慣れた」
そういえば、この人も『スカウト組』だったか。そんなことを思い出しながら、ナツメも王森と同じようにホールへ目を向けた。
千人を超える護衛者たちのほとんどが、元は身寄りのない子供である。幼少の頃から鍛え上げられ、その中でも才質のある者だけが『護衛者』として登用される。しかし、ナツメのようにその腕を買われて外部からスカウトされる者も少数だが存在した。王森もその一人であり、好物はカップラーメンという庶民派だ。
互いの過去についてあれこれ詮索することは御法度という暗黙の了解があるため、以前にどんなことをしていたのか不明な点が多いスカウト組だが、元は御前の命を狙う暗殺者だったという者もいる。そんな輩さえ、腕が良ければ己の護衛者として抱き込んでしまうかの男は、度量が広いというべきか命知らずというべきか。
ナツメも元は殺しを生業にしていた身である。そんな自分を何を思って護衛者にと言ってくれたのか。あの人の考えることは今でも良く分からない。
「お前も、性には合わなくともいずれ慣れる」
「……そういうものですか?」
隣に立つ王森を上目に見る。王森はちらりとだけこちらを見ると、またすぐ視線を戻して「そういうものだ」とだけ答えた。
▽
日付が変わっても、拳願号船内で開催されているウェルカム・パーティーは未だ終わりを見せず、中央大ホールは人で溢れている。
よくもまあ、飽きないものだ。と、ナツメは思った。金持ち共の考えることはよく分からないし、興味もないというのが本音だが、現在自分に与えられている任務がホールの警備である以上、この場から離れるわけにもいかなかった。
共にいた王森は、ひと足先に御前のもとへ戻ってしまった。そもそも王森は、護衛者の中でも『三羽烏』と称される三人のうちの一人であり、御前直属の護衛だ。本来ならばこんなところで油を売っていて良い立場ではない。そしてナツメも、立場だけで言えば王森と同じ御前直属の護衛である。
御前の身を護るべき護衛者が、なぜホールの警備など……。と思わなくもない。しかし、この催しの主催が我らが御前であり、『護衛者』はその運営を任されている。だから、これも立派な任務の一つだ。ナツメは己にそう言い聞かせ、ホールの壁を背に後ろ手を組んだ。
もう少しで交代の時間だ。休憩を挟んだあとは、ナツメも御前のもとへ戻る手筈になっている。この息苦しさもそれまでの辛抱――のはずだった。
「こんばんは、お姉さん」
不意に聞こえた男の声に、ナツメはげんなりした。
護衛者は基本的に男のみで構成されているが、その唯一の例外がナツメである。ゆえに、こういった場では好奇の目に晒されてしまうのが実情だった。かといって、護衛者のトレードマークである黒スーツを着込んだ姿を見て、安易に絡んでくる輩はそうはいない。が、こうして近寄ってくる手合いはやはりいる。
先程までは、王森の存在がそういう輩への牽制になっていた。それがいなくなった途端、これである。こういうことがあるから、ナツメは常々裏方に徹したいと思っていた。しかし、反して御前は、何かとナツメを表へと引っ張り出そうとするのだった。
「少しだけ話をさせてくれないかい」
近寄ってきたのは、褐色の肌をした二十代半ばの男だった。涼しげな目元にすっと筋の通った鼻。バーテンダーを思わせる白いシャツに蝶ネクタイ姿のその男は、愛想の良い笑みを浮かべてナツメの前に立った。
「申し訳ございません、仕事中ですので」
ナツメはにべもなく返した。これで退散してくれたら楽なのだが、男は相変わらず笑みを浮かべたまま「本当に少しだけさ」と更に距離を詰めてきた。
同じくホールの警備に当たっていた護衛者が、その男の存在に気づいてこちらに体を向けた。ナツメはそれを目配せで押し止め、もう一度「仕事中ですので」と先程より低く、警告を兼ねた声色で発した。
ぴたりと男の足が止まった。それからしげしげとナツメを見たあと、何かに納得したかのようにひとつ頷いてみせた。
「やっぱりそうだ、伏野ナツメさんでしょ。遠目にだけど、一度だけ見かけたことがあったもんで。もう十年以上前の話さ」
どこで、と告げないのは配慮か、それともこちらの出方をうかがっているのか。それでも、男が言外に仄めかした部分は明白に読み取ることができた。
「――『中』の人間か」
「まあ、元っす。俺は『狼弎』出身でね」
久しく耳にしていなかった名称に、ナツメは目を細めた。別段懐かしさを感じたというわけではない。こんなところで『中』出身者と対峙することになるとは思っておらず、しかも相手がまるで旧友と再会したかのような様相をみせるものだから、少々面食らったという方が正しい。
ナツメが生まれ育った不法集落は、一般的には『不法占拠地区』と呼ばれている。広範囲に毒ガスが発生しており、住民はごく僅かしかいない。ということになっているが、実情は異なる。あの場所には、二十万人近くの多種多様な人種が入り交じれて暮らしているのだ。内部は十の区画に分けられ、そのうちのひとつが三番街の『狼弎』である。
そして、あの不法集落出身者やその内情を知る者たちは、あの場所を『不法占拠地区』ではなく『中』と呼ぶ。その名を口にしたこの男が『中』出身の人間であることは疑いようもなかった。
「いやー、やっぱりそうか。ずっとそうじゃないかと思ってたんだ。ナツメさん有名だったし、あの頃は俺もガキだったからちょっと憧れみたいなとこもあって」
意外に思うのは、こんなにも『中』にいた頃のことを明朗と話す者がいるという事実。
『中』から『外』に出た人間の多くは『中』でのことを忘れたがり、仮に同郷と出会ったとしても互いに当たらず障らずが基本だ。
ナツメは自分が『中』出身であることを隠してはいないし、その頃の記憶を忘れたいとも思ってはいないが、『中』を忘れたいという者たちの気持ちは理解できた。
腐敗、などという言葉では到底言い表すことのできないあの場所は、この世の悪意と悪事のすべてが詰まっている。命が路傍の石よりも粗雑に扱われるそこでは〝人〟として生きることさえ難しいのだ。
だから、ナツメには目の前に立つ男の態度が実に稀有なものに見えた。
「あ、俺『義伊國屋書店』代表闘技者の氷室涼っす」
義伊國屋書店――日本書店業界のトップ企業である。書店のみでなく、バーなどにも出資をしており、会長の大屋健はなかなかのやり手であると聞く。
――氷室涼。ナツメは男と目を合わせ、その名を胸中で反復した。
『中』は国が管理することを放棄した場所である。住人は国民として認識されていないどころか、存在自体ないものとされているため、当然戸籍やそれに付随する権利云々も存在しない。それゆえに『外』へ出る際には非合法な戸籍を用いる場合がほとんどで、恐らく「氷室涼」もその類だろう。
それにしては、端整な顔立ちに似合いの響きだ、とナツメは思った。あとは、『中』の人間特有のいやな臭いがしない。
「……何の用だ」
ナツメは氷室の目を見据えていった。いやな感じはしないといっても、『中』の人間には違いない。気を許すつもりも馴れ合うつもりもなかった。
「いや、別に何か用があるってわけじゃないんだ。ただ、こんなとこで会えるとは思ってなかったからさ。本当にナツメさんなのか確かめたくて」
「なら、もう気は済んだな」
ナツメは氷室から視線を外し、周囲の様子をうかがった。案の定、好奇の目が集まっている。こうやって一人でも相手にしてしまうと、それに便乗しようとする輩が出てくるから厄介だ。
この場をどう乗り切ったものか。ナツメが頭を悩ませていると、不意に誰かに名前を呼ばれた。顔を向けると、左目に眼帯をした黒スーツの男が、ナツメと氷室に近づいてきた。
「そろそろ交代の時間です。次の配置に向かいましょう」
男はそう言ってナツメに笑みを見せたあと、氷室と向き合い、
「氷室様、お話し中のところ大変申し訳ございませんが、我々にも仕事がありますので」
と、丁寧な物腰で断りを入れた。
「ああ、いや、こっちこそ。ナツメさん、忙しいとこに悪かったね」
「いや……」
「良かったら、また今度時間をもらえないかい?」
「……気が向いたらな」
おそらく、向くことはないだろうが。ナツメは眼帯の男に目配せした。
「それでは、失礼いたします」
男が恭しく頭を下げ、ナツメもそれに倣う。そうして二人揃ってホールを出た。追い縋るような視線の数々を扉を閉めて遮断すると、ナツメはやっとの思いで息をついた。
「お疲れさまでした」
男が労りの言葉を投げて寄越す。ナツメはもう一度ため息をこぼした。
「お前が来てくれて助かった」
「お役に立てて何よりです」
二人は顔を見合わせたあと、改めて歩き出した。
「それにしても、あなたが突っ撥ねもせずに応対するなんて、珍しいですね」
「ああ……。私も相手をする気はなかったんだけど」
「何かありましたか?」
「同郷の奴だったから」
男は一瞬だけ歩調を乱したが、すぐに何事もなかったかのように「そうでしたか」と切れ長の右目を細めて笑った。
男の名は吉岡。物腰柔らかな優男であるが、数少ないスカウト組の一人であり、元暗殺者という経歴がある。昔は随分と暴れていたと聞くが、今の彼からは微塵も想像出来ない。
「あなたと同郷、ということは『中』出身の方でしたか。なるほど通りで」
「あいつのこと知ってるのか」
「義伊國屋書店代表闘技者の氷室様。闘技者としてのキャリアはまだ浅いながら、その実力はすでに強豪闘技者たちと並び称されるほどです」
「強豪って、どれくらいだ?」
「そうですね……。我々隊長クラス、でしょうか」
ナツメは吉岡を横目に見た。漢数字で「二」と記された腕章が、彼の左腕で揺れている。
護衛者は十一の部隊で構成されている。各隊の隊長は特に腕利きの者たちが任命されており、吉岡もその一人で二番隊の隊長だ。左腕の腕章がその証である。
「そうか。それだけの闘技者なら、御前もご存知かな」
「ええ、おそらく。その上『中』出身ということなら、かなりの注目株になるでしょう」
吉岡はそう答えたあと、ナツメの顔を覗き込んだ。
「それに、あなたが認めた相手ですから」
「は?」
ナツメは思わず立ち止まった。
「なんだそれ」
「普段のあなたなら、ああいう手合いは一蹴してしまうじゃないですか」
「ちょっと話しただけだろ。それで〝認めた〟はおかしくないか?」
「ですが、その他大勢とは違う対応をしたのは事実でしょう?」
「それは……、そうだけど……」
ナツメは肯定したものの、どうにも腑に落ちない。氷室が『中』の人間だから少し応じただけ。あの場所を知っている人間なら、誰だって同じようにするはずだ。
「まあ、それは冗談として」
吉岡が軽く咳払いをした。笑いを誤魔化したのは明白だったが、それを指摘するのは流石に幼稚か。と、ナツメは唇を結んだ。
「あなたの対応を見て、氷室様に注目なさる方が増えたのは間違いないでしょうね。なんといってもあなたは、我々『護衛者』の紅一点。注目度で言えば、今回参戦している闘技者たちにも劣りません」
それはそれでまた、複雑な心境ではあるのだが、吉岡相手に不満を訴えたところでどうにもならない。ナツメは閉じた口を開いて、不満の代わりにため息をこぼした。
「注目度か……。立ち振る舞いには気をつけないとだな」
「そうですね。我々は御前の『護衛者』ですから」
「御前はそういうの、あんまり気にしない人だと思うけど」
と、ぼやいたところで、耳に装着していた無線にザッとノイズが走った。
『護衛者全員に通達』
イヤホンから聞こえた声に、ナツメと吉岡は一瞬だけ目を合わせた。
『絶命号で行われていた予選が終了した。これより、予選を勝ち抜いた企業関係者の移動を開始する。御前が直々に出迎えられるため、直属の護衛はこれに随従せよ。それ以外は各自所定の通りに――』
「……思ったより早かったな」
「ええ。おかげで、休憩に入りそびれてしまいましたね」
「疲れたのか?」
「いいえ、私は大丈夫ですが」
吉岡はどこか気遣わしげな表情で、
「あなたは、そろそろお腹が空いたのでは?」
と言って眉を下げた。
「……お前、たまにそうやって私をガキ扱いするよな」
大いに不服である。ナツメはそう主張するように吉岡を睨んだ。
「……すみません」
吉岡は困った様子で笑った。
「そんなつもりではなかったのですが……。不快な思いをさせてしまいましたか?」
「別に、不快ってほどじゃない。……実際、腹は空いてる」
そう答えてから、ナツメは少し気恥ずかしくなった。自分の腹加減を把握されているなんて、なんだか決まりが悪い。
「……勝ち抜き組を出迎えたあとで、適当に何か食べる」
「手軽に食べられて腹持ちが良い物を、厨房に頼んでおきましょうか?」
「……吉岡」
「はい」
「そういうとこだぞ、お前」
吉岡ははっとした顔をして、それからまた眉を下げて申し訳なさそうに笑った。
「申し訳ありません」
「別に怒ってるわけじゃないからな」
「ええ、分かっています」
ナツメは一度吉岡の目を覗き込み、それから通路の先へと顔を向け直した。
「私はもう行くぞ。遅れたら鷹山さんに怒られる」
そう言って、吉岡の返事も待たずに歩き出す。お気をつけて、と背中にかけられた声に軽く手を振り、ナツメは足を速めた。